04:自暴自棄

長い廊下を歩く靴音が、次第に近づいてきた。いつも威圧的に踵を鳴らしてやってくる、威張りくさった軍人のものとは違い、どこか忍びやかな足音に聞こえる。
「交替の時間だ」
だが、気のせいだったようだ。それまで見張りに立っていた兵士に、ぶっきらぼうにそう告げると、足音の主はそのまま扉の前に立った。
陰気くさい獄中の最下層からしばし離れられるとあってか、去っていく方の兵士の足取りは、心持ち弾んでいるように感じられた。もっとも、軍人らしさを失わない程度に、ではあったが。
獄中の人物は、粗末な薄い毛布を頭からすっぽりかぶって身動きひとつせずにいたが、無意識のうちにもそれらを詳細に聞き取っていた。
今夜もまた同じであった。午後11時に見張りの交替。扉の前にひとり、最下層に入る前のゲートにふたり。この要塞のような牢獄全部を含めたら、何人の見張りがいるかは、さすがにわからなかったが、同様に兵士たちが交代していることだろう。

すると、昨晩まではと異なる事が起きた。
がちゃりと鍵を開ける音がしたかと思うと、厚い扉が開かれたのだ。だが、驚きはなかった。
「おや、いよいよ拷問の時間かい?」
決して予想していなかったわけではない。むしろ、それが「いつ」始まるのか気にしていなかったといえば嘘になるが、軍事独裁政権である現政府に捕らわれた時からとうに覚悟は出来ていた。
だが、兵士の行動と言葉は、思いもよらぬものであった。
「お迎えに来たぜ、レオノーラさん」
そう云うと、兵士は獄中に入り、静かに扉を閉めたのであった。

レオノーラと呼ばれた女は、素早く身を起こすと、大きな緑の瞳をぎらつかせて入ってきた男を見やった。
「誰だい、あんた? 見張りの兵士じゃないね」
女のものにしては低く、威厳に満ちた声だった。それは声だけではなかった。その女は囚われの身とは思えぬほどに堂々としており、辺りをなぎ払うほどの気力に溢れ、猛々しいまでの生気が迸っていた。
ベッドの中で起こされた上半身からは、彼女が、肉付きの良い豊満な身体に、男顔負けのしなやかな筋肉をまとっていることがわかる。
何気なく座っているようで、その実一部の隙もない。油断したら、あっという間にその俊敏な筋肉が躍動して、男の首などあっさり折ってしまいかねない迫力があった。
炎の如き赤毛は日に焼けた顔を縁取って、彼女の気性そのままに、闇の中でも燃えるように映えていた。その野性的なきつい顔には、数多の苦難と激動の日々を 乗り越えてきた年月によって皺が数本刻まれている。それは、一筋縄ではゆかぬ女であるとの印象を見る者に与えていた。
まるで雌虎だな、と獄中に入ってきた男は感心交じりに思いつつ、素直に女の問いに答えた。

「ご推察の通り、俺は国防軍とやらの兵士じゃない。ルパン三世ってぇの。どうぞお見知りおきを、レオノーラさん」
「ルパン三世? アルセーヌ・ルパンの孫とかいう泥棒かい?」
「あら、知っててくれたんだ。G国革命戦線の女闘士に知られてたとは光栄の至り」
ルパンはちょっと気取って、軽く頭を下げた。レオノーラは、緑の目を胡散臭げに細めた。
「最近ずいぶん派手に売り出し中みたいじゃないか。あんたのご活躍はこんな荒れた国でも耳に入ってくるよ。これほど厳重な警備をかいくぐってここまで潜り こんで来られたんだから、その噂がダテじゃないってことはわかったけど。……で、その泥棒さんがわざわざ何の用だい?」
「一緒に逃げようぜ。話はそれからでも遅くない」
唐突にルパンは云った。
レオノーラは呆れたように軽く口を開き、それから静かに首を横に振った。
「そんな冗談を云いに来たのかい?」
「俺はいつだって本気さ」
ルパンの若々しい顔が不敵な自信に彩られる。
彼を見つめるレオノーラの瞳に、かすかな哀れみのような翳りが浮かんだ。
「私は逃げられない。何が目的で来たんだか知らないが、あんたもさっさと立ち去るといいよ」
「諦めるのか? 不屈の女革命家、レオノーラ・ロペスともあろうものが」
ルパンはさも意外そうに云った。そして、再び自信に満ち溢れた笑みを浮かべて続ける。
「俺と一緒なら逃げられるさ。そのために俺は来たんだから。さあ、行こうぜ」
ゆっくりと彼女に近づき、紳士的な仕草で手を差し出した。
「白馬の王子様を気取りたいなら、相手を間違ったようだね」
「間違っちゃいないさ。俺、美人をこんなところに閉じ込めて置くなんて非道は許せないタチでね」
さすがの女闘士も苦笑いを浮かべた。
「この私にそんな冗談を云えるだけでも、あんたは大したタマだよ」
「でしょ? だから、さ」
さあ手をとれと云わんばかりに、ルパンはさらに手を突き出す。

だがレオノーラはついと目をそらし、独り言のように呟いた。
「誰かから頼まれたのか? いや、そんなはずはないな。同志ならすでに私が捕らえられた後のなすべきことを知り尽くしている。わざわざ泥棒なんかに救助を依頼するはずがない」
「泥棒“なんか”って……失礼しちゃうなぁ。泥棒だってあながちバカにしたもんでもないぜ。俺ならあんたをここから出せる。自由になりたいだろ?」
そう云うと、ルパンは彼自身もまとっている国防軍の軍服をもう一着取り出し、彼女のベッドに放り投げた。
「まずはそれを着てくれよ。その後、俺様が一番得意とする変装、あんたにもやってやるから」

しかし、レオノーラはいっこうに動こうとしない。投げ出された軍服からも、熱心に語りかけるルパンからも目をそらし、小さな明り取りの窓から漏れる蒼い月光の筋だけを見つめていた。
ルパンは軽くため息をついた。
「ま、そりゃそうか。いきなりやって来た泥棒を、あんたみたいな用心深い女が信じるわけないよな。それじゃ、素直に云うよ」
レオノーラは相変わらず月の光に横顔をさらしたままだったが、彼の話に耳を傾けてはいるようだった。
「お察しの通り、俺には下心があるのヨ。あんただけが知っている、『ターバンの女』の在り処を教えて欲しいんだ。その代わり、あんたをここから助け出して、お望みの場所まで連れて行く。どうだい、悪い取引じゃないだろ?」
『ターバンの女』は、このG国きっての天才画家、ナサニエル・カザルスの作品で、現代絵画の至宝と評されたこともある名画である。それが、長年続く革命の 中でいつしか行方知れずになっていたのだが、ルパンはそれを知っているはずの人物を、ついに見つけ出したのである。

ようやくレオノーラはルパンの方に視線を戻した。半身を起こした状態で、ただ黙ってベッドに座っているだけだというのに、見つめられると圧倒されるような心持ちになる。ルパンは一見平然としていたが、内心(おお、おっかねえ)と呟いていた。
「生憎だが、その申し出は断るよ」
「どうしてさ。あんたはここに居たら、拷問の末に処刑されちまうんだぜ?」
「覚悟の上だよ」
まるで動じることのない女に、畏敬の念を抱きつつも、思い通りにならないことにわずかに腹を立て、ルパンは声を荒げた。
「おいおい、自棄になるのは早いんじゃねえの? あんたはまだ革命を成し遂げちゃいない。それなのに、諦めて死ぬ気なのかよ」
どんな困難も乗り越え、数え切れぬほどの不利な戦いを戦い抜き、彼女を捕らえようとする軍部から鮮やかに逃げ続け、どんな時でも先頭に立って人々を導いてきた――いまや革命の象徴であり、生ける伝説でもある女。
そんな彼女があっさりと自分の死を受け入れているとは、ルパンにとってはとんだ計算違いであり、またなぜか失望すら感じていた。
だが、ルパンの言葉に、レオノーラの猛虎の如き瞳がきらめいた。
「見くびるんじゃないよ、若いの。私は絶対に革命を諦めたりはしない。たとえ死んでも、それだけは変わりゃしない」
「だったら……!」
「私の死が、革命にさらなる火をつけるのさ。ここで私が殺されるのは、決して無駄にはならない。この国の人々をいっそう激しく突き動かすことになるだろう」
穏やかな口調に激しい闘志と誇りをこめて、女は昂然と頭をもたげ云い放った。

ルパンはわざと大げさに肩をすくめ、一呼吸置いた。我知らず、真剣な面持ちになっていたからだ。
それに気づき、内心自嘲しながら、あえて軽い口調で云った。
「でもよぅ、ここで大人しく死ぬよりも、生きてりゃもっといろんなことが出来るだろ。俺みたいな部外者でさえあんたが革命のシンボルだってことは、よく知ってる。そんなあんたが死んだら、革命軍は意気消沈するんじゃないの」
「私ひとりが死んだからって、真の自由と平等を求める人々が屈するものか」
「だからって好き好んで死ぬこたぁないでしょ。……殉教者になりたいってわけ」
皮肉な笑みがルパンの頬をかすめたが、一瞬にして消えた。レオノーラの瞳が、あまりにも揺るぎなく力強かったからだった。
「誰にどう思われようと構わないよ。いずれ時が――すべてに評価を下すだろうさ」
そう云うと、女は再びルパンから顔を背け、小窓からベッドの上に長く伸びた月光に向けられた。
ルパンは無性に腹が立った。
こんなに生気溢れる女が、どうして無為に死のうとしているのか、彼には理解できなかった。
彼の手をとりさえすれば、再び自由の身になれるというのに、なぜそれを拒むのか。
死んじまったら何もかもおしまいじゃねえか、とルパンは強く思った。

「泥棒の手を借りるのが気に入らねえってこと?」
そう尋ねながらも、それは違うと判っていた。レオノーラは非常に実際的な考え方をする人間だと聞いている。独裁政権を否定し、近代的で人権意識の高い自由 な国家建設への志は非常に高いが、盲目的に理想を掲げるだけの女ではなく、それを現実にするためには場合によって手段を選ばぬ賢明な策士でもあったのだ。
絶体絶命の牢獄から逃げ出せるならば、誰の手によってだろうと、この女がさほど気にするとは思えなかった。
ルパンは続けて訊いた。
「『ターバンの女』を俺に渡したくねえからか?」
「それはある。あれはこの国の宝だからね」
女は初めてクスリと笑った。冗談めかした口調から、それが理由のひとつではあっても大したものではないことはわかった。
突然のその笑顔は、ひたすら峻烈だった彼女を妙に若く可愛らしく見せた。
思わずつられて、ルパンも笑いながら云った。
「わかった、この際、絵なんかどうでもいいや。あんたに在り処を教えてもらわなくても、いずれ俺一人の力で見つけ出してやるからヨ。けど、とりあえずここから出よう。一緒にな」
その言葉に偽りはなかった。ルパンにとって、危険を冒してこんなところまでやって来た目的の名画など、今はどうでもいいような気分になっていた。
それよりも、この依怙地な女を、是が非でも脱出させてやりたくなった。女のためというよりは、もはやルパン自身の意地だったのかもしれない。

「私は行かない。ひとりでお逃げ」
「力尽くでも、連れて行くって云ったら?」
二人の間に、にわかに緊張感が高まった。
女は身体を心持ちルパンの方へ向け、油断なく彼を睨みすえる。ルパンもまた、用心しつつじりじりと彼女に近づく。
迂闊に手を出せば、逆襲に遭うだろうということは、容易に察しがついた。女の闘気はまぎれもなく本物だった。
ルパンは、彼女の足元を覆うざらついた毛布を大きく跳ね退け、それを目くらましに彼女に一気に接近しようと図った。
次の瞬間、部屋の中にパッと毛布が舞う。
計算通り彼女に近づいたルパンの全身が、突然こわばり、ぴたりと止まった。
レオノーラはルパンを迎え撃つべく、ベッドから足を下ろしかけていたが――そこには、右足しかなかった。
囚人服で隠されているが、左足の膝上には大きく包帯が巻かれているのがありありとわかり、その先はだらりとズボンだけが垂れ下がっていた。

レオノーラは毅然とルパンを見つめてから、ふいににやりと笑った。不屈の勇者の笑いであった。
「案外甘ちゃんなんだね、泥棒さん。この程度でびっくりしちまったのかい? 不覚にもこの間の戦いで怪我したのさ。そのせいでこんなところに捕まっちまっ たわけだが……軍部も私から必要な情報を引き出すまでは生かしておくつもりらしくてね。結局切断するしかなかった」
「……知らなかった」
「発表されてないようだからね。おやどうした、さっきまでの勢いは。力尽くでさらうんじゃなかったのか? でも油断するなよ、私にはまだ右足も、この両手 もある。万が一それらを全部失おうと、無理強いしようとするなら、お前さんの首根っこを食いちぎってやるからね」
急に意気消沈したルパンとは対照的に、レオノーラの口調は力強く明るかった。
しかしそれが強がりでもなんでもなく、彼女は実際そうするだろうと、ルパンにはよく判っていた。
彼女は、そういう女だ。

黙り込んで身動きしなくなったルパンに、レオノーラは静かに声をかけた。
「わかってくれただろ。あんたがいくら脱獄や変装の名人でも、今の私ではついてゆけない。さあ、お帰り」
ルパンは頭を上げた。
「すぐに別の手を考えてくる……」
「無駄だよ。云っただろう? 私の意志を無視して何かを無理強いするなら、容赦しないと」
何者にも決して砕けない強固な意思が、緑の瞳を輝かせていた。
「決して自棄になっているわけじゃない。それを理解してもらわなくてもいい。だがいまやこれが、革命のために私が出来る最も効果的な事なんだ。今は、私を 助けるために無駄な血を流している時ではないし、本格的な蜂起の前に余計な騒ぎは迷惑なだけだ。……私は、自分の死が無意味に終わらないと信じている。こ の革命を成功させるのに必要なのは、あとわずかな燃え種(くさ)だけなのだから」
ルパンはかすかに悔しさを滲ませて、それでも飄々たる口調だけは保ちながら云った。
「あんたは焚き木の一本になりてえってわけだ」
「そうだよ」
「……そうか。ならば、お望みのままに」
ルパンは床の上から毛布を拾うと、そっと彼女の身体を覆った。レオノーラは穏やかに頷いた。礼のつもりだったのかもしれない。
用意してきた軍服を、再び懐にしまいこむと、ルパンは黙って立ち去った。獄中に残した彼女を振り返ることはしなかった。


そののちルパンは、戒厳令が敷かれている街の片隅で、夜が明けるまで滅茶苦茶に飲み続けた。そしてしたたかに酔った。
生まれて初めてと云っていいほどに、その酒の味は苦かった。

随分前に、日記に備忘録代わりにアイディアだけを箇条書きで書いたことがあって、その中の一つ「救わないことが救いになる女の話」が、「自暴自棄」というお題とミックスされてこういう形にまとまりました。
自暴自棄になった姿が(私にとって)一番思いつきにくかったのがルパンだったので、敢えてチャレンジ。自棄酒という形になってしまいましたが(^^;。ま だまだ「粋がってバカやってる」若い頃のルパン、という設定で書いたのですが、「こんなルパンいや!」と思われるかも知れず、かなりビクビクしつつのUP でございます。
若い頃とはいえ、あの後本気になれば彼女を救う方法は考え出せたはずなのですが、救わない事を選択せざるを得ない相手を書けたらいいなぁと思いつつ頑張ってみました。個人的に、「ルパンと絡んでも不愉快じゃない女性」を模索中でもあります(笑)

(2008.4.22完成)

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