09:殺気

その日のうららかな昼下がりは、平穏そのものであった。
穏やかな日差しが、木々の緑も、湖面に立つ小さなさざなみも、吹きすぎる風も、やわらかく照らす。
鳥たちさえも午睡しているのか、まばらに小さく鳴き交わす声がわずかに聞こえてくるだけで、辺りは暖かい静寂の中にたゆたっていた。
実際、眠くなるような午後である。
次元は早々に木陰のハンモックで昼寝を決め込んだ様子で、気持ち良さそうにそよ風に揺られている。
(このような穏やかさは、いつ以来のことか)
五右エ門は、アジトの窓辺からのぞめるこれらの光景を、しみじみと眺めいっていた。


ルパンの元へやって来てから、数ヶ月が過ぎた。
アジトでの暮らしにも慣れたと言っていいだろう。
いまだに、西洋文明にかぶれた部屋の造りは好きにはなれぬが、それとはまったく別の話として、彼はここに不思議な居心地のよさを感じて、今日まで過ごしてきた。
自分でもなぜそう感じるのか、しかとはわからぬ。
次から次へと面白がって「仕事」を見つけてくるルパンに付き合っていると、そんなことを改めて考える暇もなかったが、こうしてぽっかりと、何もすることがないまま続く日々は、五右エ門をやや内省的な気分にさせていた。


アジトの目の前にある、小さな湖のほとりに、ルパンの姿が現れた。
五右エ門が窓越しに見ていると、ルパンはそこに座り込み、釣り糸を垂れはじめた。
(あやつが釣りを……?)
何となく意外な気がした。
今まで、ちょろちょろと小気味良く、あるいは落ち着きなく動き回っているルパンを多く見ていたせいか、彼がゆっくりと釣りを楽しむという姿を、想像したことがなかった。
ふと興味を引かれて、五右エ門はアジトを出て、湖へと向かった。

光を反射して白く輝く湖面に向かって、ルパンはひょいと新たな釣り糸を放り込んだ。
やや下方に広がる湖にかがみこむようにしながら、そのままじっと動かなくなる。
糸も動かぬ。ルパンも動かぬ。風さえも、凪いでいる。
五右エ門も立ち止まったまま、その光景を見つめていた。
あまりにも長いこと動かずにいるその後姿に、五右エ門は彼が居眠りしてしまったのかと思ったが、ふいに頭を掻いたり、「ふぁあ」と呑気そうな声まで出して欠伸をしたりすることで、かろうじて眠ってはいないのだとわかった。
やがて少しずつ、近づく。

特に気配を殺しているわけではないから、五右エ門がそこにいることを、ルパンならば気づいているはずである。
だが、彼はぼんやりとした横顔をさらしたまま、こちらを振り返ろうとも、声をかけてこようともしない。
やや背中を丸め、力なく、釣り糸を垂れ続けている。
だらしがないと言いたくなるほどに、その面は穏やかにゆるみきり、曖昧な視線を湖の方へ向けたままである。
これが、あのルパン三世であろうかと、五右エ門は奇妙な感慨にとらわれた。
あまりにも隙だらけである。
時として垣間見せるぞっとするほどの凄みも、底知れぬ企みをはじき出す鋭敏さも、軽率に見えるほどの大胆不敵さも、そこには一切感じられなかった。

もちろん、ルパンは常日頃から、ぴりぴりと神経を尖らせている人間ではなかった。
むしろ、もっと真剣に振舞えないものかと、時として五右エ門が苛立ちを覚えるほどに、朗らかで、いい加減で、余裕に溢れた態度を崩さない。以前はそこが、五右エ門の気に障って仕方がなかったのだが……
そうすることがこの男の矜持なのだと、今はとりあえずそう理解している。
そして、一見どれほど滑稽に、間が抜けて見えようとも、ルパンが決して油断のならない男であることを、五右エ門は身をもって深く理解しているつもりでいる。

だがそれにしても――
目の前にいるルパンの無防備さはどうだ。
焦点が合っていないようなとろんとしたまなざし、何を夢想しているものか、しまりのない口元。完全に力が緩められたその身体。
平穏すぎて、眩暈がしてくるほどである。

今この場で、五右エ門が刀を抜いて斬りかかったとしたら、一体どういうことになるのだろうか。
ふと、想像してみずにはいられない。
ルパンは五右エ門の渾身の一刀を避けることができるのだろうか。こんな腑抜けのような状態で。
本気ではない。無論のことである。これは、ちょっとした思考の遊戯にすぎぬ。
斬鉄剣を下げるその手に、わずかな力すら加えはしなかった。

ちょうどその時であった。
「斬ってみるか?」
微風に乗って届く、ルパンの、その声。
どくん、と五右エ門の心臓がひとつ、大きくはねた。
すべて、ルパンには見破られていたのだ。殺気などには程遠い、こんな微妙な気配すらも。
少し顔を傾けて、ルパンはへらへらとした、図りがたい笑顔を向けてくる。
(やはり、この男は――)
五右エ門は、ふっと息を吐き出した。


「敵わんな、ルパンには」
素直に、五右エ門はそう言った。こんな台詞をするりと言えた自分に、かすかに驚きを感じながら。
相手がルパンだったからなのかもしれぬ。
そう思い、改めてルパンの顔を見ると、なぜか彼は間の抜けたぽかんとした表情を浮かべている。
「な、なんだよ五右エ門、お前ホントに俺のこと斬ろうって考えてたワケ?」
「えっ」
「お前がむっつりしながら俺の方睨みつけてるからさぁ、ほ〜んの冗談のつもりで言っただけなのに。図星だったってぇの? わーヤダ、五右エ門ちゃんたら。そんなこと考えてたんだッ!」
ルパンは大袈裟に身震いの真似をしてみせる。
そして、軽やかに笑い飛ばした。

五右エ門は絶句せずにはいられなかった。
(冗談? こちらの気配を読んだからではなく?)
返す言葉もなく立ち尽くしている五右エ門に、あっさりと背を向け、再びルパンは湖に視線を戻した。
その時ふいに、釣り糸がピンと張る。何かかかったのだ。
ルパンの顔が、無邪気ともいえる明るさに輝いた。釣竿がしなり、ルパンは立ち上がって懸命に糸を引き寄せる。夢中になったその様子は、まるで子供のようである。
五右エ門はただ黙って佇むばかりだ。
果たして冗談だったのか。ハッタリをかましたタイミングが五右エ門の心の動きと偶然あってしまっただけなのか。
(わからん)
いくら考えても、五右エ門にはわかりそうもなかった。むしろ考えれば考えるほど、わからなくなっていきそうにも思えた。
だがその混迷しかかった物思いは、ルパンの「おい、五右エ門、手伝ってくれえ」という悲鳴じみた声に遮られた。
今にも切れそうな釣り糸としなりきった釣竿をもてあまし、魚一匹に大騒ぎしながら湖に身を乗り出しているルパンが、そこには居た。
そんな彼を支えるべく、五右エ門は苦笑いをかみ殺して走り寄っていった。

最初に書き上げたお題。
当初、この「お題」は、「トリック」や「事件」にあまりこだわらずに書こうという気持ちがあったせいか、比較的気楽に仕上げることが出来ました。
いつも私の中に「ルパンが考えている本当のところは、傍からではわからない」という思いがありまして、それが結実した話のようです。
この話、何人かの方からこっそりと「とても良かった」という感想を戴きまして、その気になった私(笑)。今ではお気に入りの話の一つかもしれません。

(2004.2.9完成)

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