忘却の街 2

不二子がロイドバーグにやって来ていたのは、それほど不思議なことではない。
そもそも次の仕事は彼女が一番乗り気だったのだから、自ら乗り込んできたのは、彼女らしいと云えた。
また、別の男と一緒だった時にそ知らぬ顔をされたくらいのことで、いちいち気に病んだりはしない。
大袈裟に嫉妬して見せることはあっても、あの子猫ちゃんがまた何か企んでいるのだろうと、普段ならば受け流しているところだ。
しかし、次元と五右エ門の様子がおかしい今、何でもないことだと見過ごす気にはなれなかった。
ルパンを、見知らぬ男として部屋から追い出した相棒たち。
ルパンを見ても、赤の他人のように無表情に素通りした不二子。
関わりがないと考えるのは、楽天的すぎるように思えた。


半ば己の思考に気を取られながら、ルパンはホテルのフロントで部屋をとる手続きをした。
ふと思いついて、宿泊カードに正式な名前をサインしてみる。
『ルパン三世』と。
あまりに堂々と名乗ったために、戯言だと考えられたのか。受付の女は、宿泊カードに記された名前を見ても、いたって穏やかに微笑んだまま、事務的にチェックイン作業を終えた。
その態度にルパンはやや拍子抜けしたが、職業上、客の目の前で露骨に怪しむ真似はしないのが普通だ。

だが、どうしても尋ねてみずにはいられなかった。キーを受け取りながら、相手の顔を覗きこむ。
「ねえ、お嬢さん。俺ルパン三世ってんだけど、ご存知?」
突然そう訊かれた女は、驚いたようだったが、顔には職業的な笑顔を保っていた。
「ルパン様、以前から当ホテルをご利用いただいているのでしょうか。それは大変失礼いたしました。私、今年入社したばかりで存じ上げず……」
大真面目に答えられて、今度はルパンの方が戸惑った。
「いや、そういうイミでなくてね」
「は?」
「テレビや新聞で、見たことないかなぁと思って」
「……あの」
困惑した女の顔を見れば、答えがNOであることは一目瞭然であった。彼女の答えを待たずに、ルパンはひらひらと手を振って、その場を離れた。
奇妙な不安が、ルパンの胸に重くのしかかりつつある。

受付の女の態度が、演技ならばいい。
大犯罪人ルパン三世を前にして、一刻も早く警察に連絡したいあまりの、演技であるならば。
しかし、彼女の反応は、本気で「『ルパン三世』などという名前は、一度も聞いた事がない」と戸惑っている人間のものだった。少なくともルパンにはそう見えた。
だが、いくらここが陸の孤島のようなど田舎の小都市だとはいえ、ルパンが幾度も大きな事件を起こしているこの国で、しかもホテルの従業員が、最重要国際指名手配犯の彼の名を知らないことは、まずないと云っていい。
普通なら、だ。

足早に部屋に入り、上着を脱ぎ捨てると、すぐに煙草に火をつけた。
せわしなく吹かしながら、しきりと外の気配を窺い続ける。
フロントの女の態度が知らないふりの名演技であり、あの後こっそり警察に通報したのなら、そろそろやって来てもいい頃だ。
あまりに堂々とルパン三世と名乗ったために、悪戯と見做された可能性はある。だが、まともなホテルであれば、手配書の人相と照らし合わせ、念のため警察に連絡するはずだ。

しかし、夜になっても、一向に事態は変わらなかった。
部屋に踏み込んでくる警察官はもちろんのこと、窓の外から様子を伺う人影もなければ、何気なく部屋に目を光らせているホテルマンの気配すらない。
あの女は、警察に通報しなかったのか。
それは、ルパンの名を、存在を、知らなかったから?

時折、相棒の部屋に仕掛けた盗聴器の拾う音に耳を傾けるが、こちらも静かなものだった。
二人が顔をあわせても、ルパンのルの字も出はしない。

みんながみんな、ルパン三世の存在を忘れている――

思わず、ルパンはぶるっと顔を振って、くだらない想像を振り払おうとした。
「へっ、ばっかばかしい」
大きな音を立てて自分の膝を叩き、力を込めて立ち上がる。
「来ないんだったら、こっちから行ってやろうじゃないの」
ただ考え込んでいたところで何もならない。ルパンは勢い込んでホテルを出た。



ホテル正面玄関が面している、この街のメインストリートを少し西に向かうと、警察署が見えてくる。四角い、平凡な建物である。大した事件の起こらないエリアなのか、パトカーの出入りは、見当たらなかった。
ルパンは大胆にも署の前で車を降りると、ずかずかと中へ入り込んで行った。
「こんちは」
気軽に声を掛けつつ、廊下の右側にある部屋を、手っ取り早く覗いてみた。数人の警察官が机を前に座っている。
ドアに近い一人が、書類から顔をあげて立ち上がった。
「どうかされましたかな?」
口髭を蓄えた恰幅のいい警官は、年恰好や物慣れた態度からしてかなりのベテランなのは間違いない。
ルパンは、どう切り出したものかと、頭をかきながら口を開いた。
「あの〜俺ぁ、ルパン三世ってモンですけどね」
「ルパンさんね。私はジャクソン警部補です。それで、御用は?」
ルパンは絶句した。
警察官に、こんな態度をされたのは生まれて初めてだった。

「なあ、俺を逮捕しないの?」
「逮捕されるようなことをしたのかね。何をしたんだい?」
朴訥な警察官の言葉は、ルパンの胸底を冷たくしていく。
まだいつものような皮肉な笑みを浮かべてはいたが、声が鋭くなっているのがわかる。
「ふざけるのはよそうぜ、ジャクソンさんよ。俺はルパンだ。あのルパン三世だって云ってるんだぜ。ちゃ〜んと国際指名手配されてるだろ!」
「国際指名手配のルパン三世……? 誰のことだ、ふざけてるのは君の方じゃないのか」
ジャクソンも、奥にいる警察官たちまでも、怪訝そうな視線を向けてくる。まるで、酔っ払いか、頭のおかしな人間を相手にしているかのような視線だった。
ルパン本人であることを疑われているのではない。
彼らは、“ルパン三世”のことを知らないのだ。
ICPO加盟国であるこの国の、年季の入った警察官だというのに。
この街よりもっとずっと僻地に住む子供だとて、彼の名くらいは知っているというのに――

「まあいい、何か自首したいことがあるなら、別室で話を聞こうか。……あっ?!」
ジャクソンが少し目を逸らし、そう云い終るまでに、ルパンはその場を立ち去っていた。
とりあえずもう、警察署に用はない。
ひらりと車に乗り込み、再びホテルに向かって走り出す。アクセルを深く、踏み込んだ。

夜も更けてきた田舎街は、妙な寂寥感を漂わせている。それでもまだメイン通りにささやかな賑やかさを残しているところが、余計に大都会との差を強調しているようだった。
わずかなネオンの中を、ただ疾駆していく。
冗談じゃねえや。
心の中で叫んでいた。
そして、こんな小さな街に住んでたら、知らなくったって仕方ないことなのかもしれない――我ながら説得力がないとわかっていながら、ルパンはそう考えずにはいられなかった。


ホテルの前に戻ってくると、ちょうど玄関から次元と五右エ門が出てくるのが見えた。
どこかへ飲みにでも行くのだろう。相棒たちのあまりの気楽さに、思わず頭に血が上る。
車から飛び降りて、ルパンは二人の元へ駆け寄った。
ルパンの姿を認めると、二人はぱっと身構え、警戒心をあらわにする。
だが、ルパンはお構いなしに近づくと、いきなり次元の襟首を掴み上げた。

「いい加減にしろよ、次元! 五右エ門、お前もだ。どんな理由があるんだか知らねえけどな、陰険すぎるぜ。他人のふりなんかしてねえで、云いたいことがあるンなら、面と向かって云いやがれってんだ」
「な、何を云ってやがる、このッ……」
次元は苦しげに呻き、締め上げるルパンの手を振りほどく。
「またお前か! 他人のふりもなにも、もともと知らねえんだよ!」
「ふざけンな! お前たちは、俺の相棒じゃねえか。忘れたなんて云わせねえぞ。この街にお前らがやって来たのだって、俺と仕事するためだろうが」
「何をほざいていやがる!」
ルパンと次元は、互いに掴みかかり殴りあう寸前だったが、五右エ門が素早く間に割って入って、それを止めた。

他人行儀な、どこか哀れみすら漂わせた五右エ門の視線が、ルパンの頬をこわばらせた。
頭のねじの緩んだ気の毒な男を相手にしているかのように、五右エ門はゆっくりと云った。
「何度も申しておるように、我々はお主とは無縁の者なのだ。お主は何か思い違いをしておるのだろう?」
ルパンは、だらりと腕を下ろして、呟いた。
「無縁の者、思い違いときたもんだ。……へっ、よく云うぜ。お前ら俺を知らないって、まだ云い張る気かヨ?」
鼻先でせせら笑ってみるが、二人の表情はまるで動かない。
「家へ帰って休め。これ以上、つきまとってくれるな。いいな」
五右エ門が静かに頷きかけ、通り過ぎていく。
帽子の鍔の影から、じっとルパンを睨みつけていた次元は、彼と目が合うとすぐさま不機嫌そうに視線をそらして去っていった。


夜の街に消える彼らの姿を、もはや目で追うこともなく、ルパンはただ、その場で佇んでいた。
そしてふいに笑い出した。中途半端に賑やかな夜の街に、その哄笑はうつろに響いた。
そんな彼を気味悪そうに遠巻きにして、人々が通り過ぎていく。
ホテルの正面玄関脇の壁にもたれかかり、ようやく笑い疲れて声を落とした。
「あいつらまで俺を、ルパン三世を、知らないと抜かしやがる。思い違い? あいつらとの記憶が全部俺の妄想だってワケか。今まで俺がやってのけた盗みも何もかも?」
寄りかかってる壁を叩きつける。口元には挑戦的な笑みが刻まれたままだ。
「じゃあ、俺は誰だっていうんだ。あいつらを相棒だと思ってるこの俺は。自分を世界一の大泥棒だと思っている、この俺は……」
世界中の誰も彼もが、この記憶を否定した時、いったい「真実」はどこにあるのだろう。
しかし、彼の瞳は、いっそう強く光る。
何者にも屈することを知らぬ傲慢な男は、心の中で呟いていた。
俺はルパン三世だ、と。

ゆっくりと壁際から離れ、ひょいと姿勢を正すと、ルパンは歩き始めた。
どこへ向かうのか、まだ決めてはいなかったが、歩かずにはいられなかった。
その時だった。背後から、駆け寄ってくる強い気配を感じた。
振り向く間もなく届いたのは、聞きなれた怒鳴り声だった。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送