ハプニング (前)

[J]
次元大介は、きわめて満足していた。
手元には最高のコニャック、室内に響くはクラシック音楽。
カーテンを揺らす微風も限りなく心地よく、さわやかな若葉の香りを運んでくる。
身を横たえたソファは、彼の疲れた身体をきわめて快適に支え包み込んでいる。
何もかも、申し分ない。いい休日になりそうだ。次元はグラスを傾けてうっすら微笑んだ。
久しぶりにありついた穏やかな一日なのだ。そうでなくてはなるまい。今日だけは、静かに、平穏に、そして自堕落に、何一つ面倒なことはせず、ただただのんびりくつろぐのだ。
次元は、そう心に決めていた。

ここ最近の仕事は、あまりにもハプニング続きで、無駄な苦労が多すぎた。ルパン・五右ェ門との一ヶ月を振り返って、しみじみとそう思う。
隣国の悪徳カジノから大金をせしめたり、密輸団を出し抜いて有名絵画を奪ったり――楽しくなかったわけではないが、トラブルの頻発にいい加減嫌気が差した。しばらくは、ゆっくりと休みたい気分なのである。
当分の間、モグラのような穴掘りも、埃まみれの天井裏を這い回ることも、臭い下水道に身を潜めることも、まだ冷たい海に飛び込むことも、御免だった。
幸いなことに、五右ェ門は早々に日本へ帰ってしまっていたし、ルパンは朝から浮かれてどこかへ出かけていった。
アジトには次元ひとりだ。
誰にも邪魔されず、好きなだけダラダラしてやる。徹底的に、断固として、優雅に“無駄な一日”を過ごすのだ。

その時、電話のベルが鳴った。お気に入りのレコードの音色に割り込んでくる、けたたましく自己主張の強いその音。
次元は途端に苦虫を噛み潰したような顔つきになった。
よりによってこんな日に電話してくるなんて無神経なことをしやがるのは、一体どこのどいつだろう。
腹を立てながらそう思いはしたものの、実際誰が電話をかけてきたのかなど、次元はまったく知りたくなかった。
どうせ掛け間違いか、セールス電話だ。いずれにしてもろくなものではない。
「俺はいねえぞ。留守だ留守だ」
コニャックの瓶を抱えて、次元はテラスへと逃げ出した。静かなひと時を邪魔されてたまるものかとばかりに。
背後では、留守番電話に切り替わる音がした。



[F]
『ハ〜イ、こちらレニーヌ探偵事務所! 悪いンだけっどもただいまお留守タイムよ。御用の方は、メッセージ残してってちょうだいね。そんじゃヨロシクゥ!』
ルパンによるいいかげんな留守番メッセージが聞こえてきた。
どうやら、いないようだ。
不二子はそのまま受話器を置くと、手早く荷物を取りまとめた。
確かルパンは、仕事が終わったらこの街の郊外のアジトにしばらく滞在すると言っていた筈だったが……いないならば仕方がない。
電話をかけて警告しようとしてあげただけで、じゅうぶんすぎるほどの親切だ。ルパンたちのことだから、あとは自分たちで切り抜けられるだろう。
そう考えながら、不二子はホテルの部屋を出ようとした。

そのタイミングは、あまりにも悪かった。
もしも先の電話に次元が出て、何かしらの会話を交わしていたのなら、まさにこの時ドアを開けずに済んだのだったが、そんなことは神ならぬ身にわかるはずがない。
彼女はまんまとドアを開け、ちょうどその真正面を通りかかっていたルームサービスのワゴンに突き当たったのだった。
「あッ」
弾みで、ワゴンに乗っていたシャンパンの瓶が床で砕け散り、不二子の靴とパンツの裾を著しく濡らした。
不二子はあまりに急いでいたので、ドアの開け方が乱暴であった上に、開くと同時に足を部屋の外へ踏み出していたせいでシャンパンシャワーを浴びる羽目になったのだ。
またよりによって本日デビューの新人サービスマン、あまりに廊下の端を歩きすぎていたせいでもあった。
ボーイは激しくうろたえ、丁重な詫び言を繰り返しつつ、彼女の濡れた衣服を拭こうとワゴンを回り込んだ。が、あまりに慌てすぎた彼は、ワゴンに自ら体当たりしてしまった。
そのため、大人しくワゴンの端に乗っていた、スクランブルエッグの皿を盛大にぶちまけることになった。
絶妙なやわらかさに調理されていた卵は、ハンカチで濡れた足元を拭こうと身をかがめていた不二子の胸元を直撃した。
「ああ……ッ!」
あまりに激しく怒った時は、何一つ言葉にならないことを、不二子は身をもって知った。

悲鳴のような声で謝り続けるボーイをあしらって、彼女はいったん部屋の中へ戻った。動揺しているボーイの相手をする間も惜しい。
いくら急いで出発しなくてはならないとはいっても、シャンパンの香りをさせ、半熟卵をベッタリ身に着けながら歩き回るなんてゾッとしない。着替えなくてはならない。それも、大至急だ。
素早く汚れた衣服を脱ぎ捨てつつ、あんなドジを平気で雇っているホテルになど、金輪際二度と泊まるまいと心に誓う。
忌々しいことに、髪の毛にまで卵は飛び散っていた。苛々しながら、それを洗い流す。
シャワーを浴びなおしたいが、すでにかなり時間をロスしており、それどころではない。とにかくすぐにホテルを、そしてこの街を出るのだ。

執念深くルパン一家を狙っている殺し屋が、この街に居ることを彼女は偶然知った。それが、急いで立ち去ろうとしている理由であり、ルパンたちに電話をした理由でもあった。
ディックとリックという兄弟二人組の殺し屋に、ひょんなことから恨みを買ったことから狙われるハメになったのだが、不二子はすでにそのキッカケが何だったかすら忘れてしまっていた。
ただむやみとしつこく、手荒に襲い掛かってくる彼らの手口にうんざりして、出来れば顔を合わせず逃げ出したいと思っているのだ。
あとはきっと、ルパンがどうにかしてくれるだろう。
着替え終わった不二子は、少し用心してそっとドアを開け、今度は無事外に出た。

しかし、そのタイミングは最悪と云って良かった。
彼女がエレベーターでロビーに降りた瞬間、正面玄関から黒尽くめの男が影のように入ってきたからである。



[L]
タクシーのハンドルを握りながら、ルパンはにやにやと顔を緩めていた。
バックミラーに自分の顔を映し出し、満足げに頷く。いつも以上に完璧な変装だ。不二子にだって、彼がルパンだとはバレないだろう。
今ルパンは、タクシーの運転手に化けきっていた。
もっとも、そう長いこと不二子を騙すつもりはない。ほんの少し、驚かすだけなのだ。
彼女の滞在が今日までなのは、先ほど巧妙にフロントから聞き出し、確認済みである。
何も知らずにやがてホテルから出てくるであろう不二子を拾い、ちょっとしたサプライズを仕掛けてみるつもりだった。目的地とは違う方向に車を走らせれば、不二子は異変に気づくだろう。
そこでハードボイルド風に驚かすか、ロマンチック路線で攻めるか。ルパンはまだ演出を決めかねていた。
だが最終的には、先日手に入れたダイヤをプレゼントして大喜びさせるつもりだ。プレゼントの仕方もいろいろと工夫しないと、新鮮な喜びを味わってもらえないというのが、彼の考えである。

あとは彼女の登場に合わせて、タイミング良く車を玄関前に滑り込ませるだけだ。ルパンは客待ちのタクシーの列に連なりながら、不二子が出てくるのをわくわくしながら待った。
そこへ、一台の黒い車が乱暴に走りより、正面玄関の前で止まった。
中からは、この季節には不似合いの、黒い皮ジャケットを羽織った男が出てきて、足早にホテルの中へ消えていった。サングラスをしているが、人相の悪いことが一目瞭然の男である。
反射的に、いやな感じだと思ったものの、黒い男の姿が見えなくなればすぐに忘れた。
もっとも、忘れていられるのはわずかの間ではあったが。



[F]
真っ直ぐこちらへ向かって歩み寄ってくる黒い姿に、不二子は身をこわばらせた。
瞬時に、彼がすでにジャケットに突っ込んだ手に銃を握り締め、こちらに向けていることを見て取ったからだ。
広々としたロビーは、チェックアウトをして出て行く人で溢れていたが、まだ誰も、何も気づいていない。
逃げ出すことは賢明ではなかった。彼の銃弾を浴びずに身を隠せるところに転がり込める確率は、あまりにも低い。
男は、あいている方の手でサングラスを上げ、不気味に笑った。
例の殺し屋である。
もっとも、不二子は彼がディックなのかリックなのか、わからなかった。何度か彼らには遭遇しているが、いまだにどっちがどっちなのか区別がつかないのだ。
ディックだかリックだかは、殆ど口を開かずに凄みを利かせて云った。
「そうだ、大人しくしてろ。逃げようとするんじゃねえぞ。おかしな真似をしやがったら、たちまちここは大量虐殺の現場になっちまうぜ」
この男なら、無関係な人間を巻き込むことなど何とも思わないだろう。そう納得させるような面構えだった。
不二子は黙って頷く。
「一緒に来るんだ。玄関を出たら、そこに止まってる車に乗れ」
ポケット越しに、男は銃口を不二子に突きつけた。
「無粋な誘い方ね」
その呟きは幸い、ディックだかリックだかには、聞こえていないようだった。



[Z]
峰不二子がホテルの正面玄関から出てくる、まさにその時、その光景を目撃した男がいた。銭形警部である。
黒尽くめの物騒な男と、寄り添うように歩き、彼女は車に乗り込もうとしている。
なんてついているんだ。
彼は内心快哉を叫んだ。
ルパン一味がこの街に潜り込んだとの情報をキャッチし、やって来た銭形は、街中のホテルを一軒一軒当たるつもりだったのだ。彼らはアジトにこもる時も多いが、堂々と(銭形に云わせるなら図々しく)ホテルに宿泊していることもあるからだ。
徒労に終わることを覚悟していたというのに、最初に訪れたホテルで不二子を見かけるとは、非常な幸運だ。
不二子あるところにルパンあり。
彼女をマークしていれば、必ずルパンに接触する。銭形は、長年の経験からそう結論を出している。

彼女は、黒い車に乗ったようだ。このままでは見失ってしまう。
慌てて周囲を見回す銭形の目に、一台のタクシーの姿が飛び込んできた。
玄関前のロータリーへ強引に飛び出してきたくせに、不意に所存無げにスピードを緩めたおかしなタクシーだったが、銭形とっては絶妙に良いタイミングで目の前に現れてくれた。
素早く駆け寄り、タクシーに乗り込む。
「おい、あの黒い車を追ってくれ! 早く!」
有無を云わぬ口調で、運転手に命じた。
「とっ……!! いや、そのっこの車はっ」
運転手は、ひっくり返った声で何やら云おうと、口をパクパクさせている。
何が不服なのか知らないが、反論を許している時間はない。銭形は、内ポケットから身分証を取り出すと、運転席の方に身を乗り出し、怒鳴りつけた。
「ワシはICPOの銭形だ! これは公務なんだ、さあ、あの車を追え!」
「わ、わかりやしたよ、ダンナ」
先ほどまで滑稽なほど慌てふためきびくついているように見えたが、その口調は妙に馴れ馴れしかった。
銭形が眉をひそめた時、車はスムーズに走り出した。
あっという間に、不二子が乗っている黒い車が見える位置につける。
尾行がばれない程度に適当に距離をあけ、軽快に走り続ける。見た目によらず、相当熟練した運転手のようだ。
満足して銭形は云った。
「うまいじゃないか。そのまま見失わんように頼むぞ」
「へいへい、お任せを」



[L]
参ったなぁ。
ハンドルを巧みに操りつつ、運転手がそう呟いたことに、後部座席の銭形が気づくことはなかった。
運転手の変装したルパンは、不二子に仕掛けるはずの悪戯が、こんな風に予想もつかぬ方向へ転んだことに戸惑っていた。
と同時に、この奇妙な状況を、少しばかり楽しんでもいた。
しかし、楽しんでばかりはいられない。
不二子は何らかのトラブルに巻き込まれている様子だ。遠めに見ただけでも、不二子の表情がいつもと違い強張っていることがわかった。
隣にいたのは、見た瞬間にいやな感じを受けたあの黒い服の男。彼に、捕まったのではないだろうか。
運転席には、もう一人別の男いたようだ。荒っぽい運転を好むらしく、制限速度を大幅にオーバーして走り続けている。
どこかで見かけた奴らだと、ルパンは頭をひねったが、なかなか思い出せなかった。

いずれにしても、不二子を助けなければならない。
だから黒い車を追うことに、ルパンとしても異存はなかった。
問題は――
ちらりとバックミラーに視線を走らせる。鏡の中では、ルパンにとっての“大問題”が口を真一文字に結んで正面を見据えている。
銭形が不二子を追っているのは、間違いなくルパンが目的のはずだ。
わざわざ追う間でもなく、ここにいるというのに。
ふと、バックミラー越しに、銭形と目が合った。反射的に目を逸らしたが、こんな態度では怪しまれると思い、すぐに戻して今度はタクシー運転手らしく、控えめな愛想笑いを投げかけてみた。
「何をニヤニヤしとる。前を見て運転せんか、前を!」
「へーい」
お愛想笑いも銭形には通用しないのだ。素直に返事をした後、そっとため息をつく。
このとっつあんが、不二子を救う段になって邪魔にならなければいいけれど、とルパンは真剣に願わずにはいられなかった。



[F]
「武器を出しな」
車に乗るとすぐに、男は銃口を不二子に突きつけながらそう云った。
運転席で待機していた男が、乱暴に車を発進させる。後ろに乗っている不二子と男は、激しく前のめりになった。
「おい、気を付けねえか!」
ディックだかリックだかが怒鳴ると、
「これくらいナンだってんだ。黙って乗ってろ!」
と、リックだかディックだかが怒鳴り返した。
実に良く似た兄弟だ。双子ではないはずだが。
やけに筋肉質の、ゴリラじみた体型と、それに似つかわしい岩のようにごつい顔つき。短く切った髪型も殆ど同じだ。
運転している方の髪の色が微妙に濃いようにもみえるが、気のせいかもしれない。

「ナンだってそう人の顔をジロジロ見やがるんだ! さあ、さっさと銃を出せ、早くしねえかっ」
隣の男はいきり立ったが、すぐにニヤリと下卑た笑いを浮かべると、云った。
「それとも、身体検査されてえか? ああ?」
「その役は俺がやってやってもいいぜ。念入りにな」
ハンドルを握っている方が、ゲラゲラといやらしく笑った。
男はいつもこれだ。不二子はあきれて肩をすくめると、おとなしくブローニングを取り出し、渡した。
「それでいい。抵抗すると、あの世に行くのが早まるだけだぜ」
「わかってるわ。それで? これからどこへドライブするのかしら?」
「ルパンたちの元へさ。お前なら、奴らの潜んでいる場所を知っているだろう」

不二子は軽く唇を噛んで考えた。
「知らないわ。ここ何ヶ月か、ルパンたちとは一緒じゃなかったもの」
横腹に突きつけられている銃が、さらに彼女を強く圧迫した。
「ルパンに義理立てして、先に地獄へ行ってるか?」
「ルパンのアジトが世界中にいくつあると思っているの? 私だって全部知ってるわけじゃないのよ」
運転席の男が、口を挟んできた。
「とぼけても無駄だぜ。ルパンはこの街に居るってことは、判ってるんだ。お前はただ案内すりゃいいんだ」

この街のアジトには、ルパンたちはいないはずだ。先ほど電話を掛けた時、誰も出なかったのだから。
とりあえずそのアジトまで案内して、時間を稼ごう。そう不二子は決めた。
「ひとつだけ、心当たりがあるわ。でも、ルパンが居るかどうかまでは、わからないわよ」
「居るところまで、案内するんだ」
「……」
人の話をきいているのかいないのか。がさつでザラついた男の声も不快だ。不二子は、早くもうんざりしはじめていた。
アジトのある郊外の地名を告げると、せめてもの気晴らしに窓の外を眺める。

彼女の気も知らず、隣の男が、今度は前の兄弟に向かって喚きはじめた。
「おい、今の道を左折だろう」
「いいんだよ、真っ直ぐで」
「郊外へ出るなら、さっきのところで左折だぜ」
「もう少し行ったところに、大きな交差点があるんだ。曲がるのはそっちでいいんだよ」
「それじゃ、遠回りになるってことを知らねえのか。バカヤロウ」
「バカヤロウとはなんだ。何も知らねえのはそっちだろう! こっちでいいんだ!」
「よくねえよ! その隙にルパンに逃げられたどうするつもりだ」
「なんでもかんでも俺のせいにするんじゃねえよ」
「いいや、お前のせいだ。少なくとも今のは、お前が間違ってたんだぜ、リック」
ということは、今喋った方がディックなのか。
そう思い急いで振り返ったが、あまりに矢継ぎ早な言い合いで、すでにどちらがリックと呼びかけていたのか、不二子にはわからなくなっていた。
無意味な口論は、果てしなく続いていた。

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