化身 (後)

長い冬もようやく終り、忍びの里にも春がやってくる。
冬の間も、龍世の疑惑は尽きることなく、だが女への恋情はなお激しく燃え盛る。周囲の人間は、さりげなく彼を遠ざけ始め、いまや龍世と口を聞くのは師匠と五右エ門、そして香乃だけとなっていた。

ある日、五右エ門は山のふもとに使いを頼まれた。
五右エ門と一緒に行くことになったのは、龍世だった。
2人きりの時に、また気の重い話を聞かなくてはならないのだろうか、と正直億劫に思ったのだが、案に反して龍世は黙々とふもとまで歩き続けるだけであった。

用事が済み帰途についたのは夕方。
この分では忍びの里に戻れるのは夜半過ぎになりそうだった。
手の内の灯りだけが、小さく細々と辺りを照らす。山の中の闇は、信じられぬほど深い。
普通の人間ならとても歩けぬような闇の中だが、修行を積んだ2人には取り立てて苦にもならぬ。ひたすら、歩を進めた。

その日は、満月の夜であった。
月が昇ると、周囲は青白く輝く。夜の山々が淡く浮かび上がる。
妖しく、心ざわめくような夜……。
鳥や、小動物が不安そうにうごめき、時折甲高い鳴き声が夜のしじまを破る。
「何だかおかしな気配だな。やはり、満月だからか」
龍世がポツリと呟く。五右エ門も頷く。
「みんな、気が高ぶっているみたいだ」
「こういう日は、早く帰るに越したことはない。五右エ門、近道をせぬか」
「ああ」

2人はいつも通う道を外れ、険しい獣道に入っていった。
そして……

そこは、桜の森の満開の下。
どこを見回しても、一面の桜、桜、桜……
闇が、白い。狂おしく花びらが舞い散る。
地面を覆い尽くすほど花びらが散っているというのに、いまだ満開に咲き誇る。
天も地も、桜だけが埋め尽くす。
延々と続く桜の森に圧倒され、2人はしばし言葉を失っていた。
しばらくして、かすれ声で五右エ門が囁いた。
「……ここは、桜の森だったのか」
「この季節に通るのは初めてだ。めったに通らぬし、俺も、知らなかった」
龍世は息を詰めて降りしきる桜の花々を見上げていた。

「何だか、おかしくなりそうだ。早く、行かないと」
満月の光と相まって、その光景は凄惨ともいえる美しさ。五右エ門は、兄弟子を急かして歩を進めた。
時間の感覚も、距離感も、すべてが桜色に溶けてしまう。
どのくらい歩いたのか、「そこ」が山のどの辺りだったのか、五右エ門には、明確な記憶がない。
酩酊感すら覚え始めていたその頃。

突然満開の桜の下に、女の姿が現われた。
香乃だった。
「……!」
女がこんなところにいることを不思議に思いつつも、声をかけようと口を開きかけた龍世は、ふいに言葉を飲み込んだ。とても、声をかけられる雰囲気ではなかった。
女は、艶やかな笑みを湛え、妖しく目を光らせながら、桜の木に寄り添っていた。深紅の衣から伸びる、のけぞる白い首が、眩しい。
木の陰に、誰かいる。
その、誰かと女は戯れている。里では、誰にも見せたことのないような、表情を浮かべて。
遠くからでも、女が「ククク」と妖しく笑ったのが見えた。

瞬時に、能面のように一切の表情を失った龍世は、一歩、女のほうに歩み寄る。
「龍……」
呼びかけた五右エ門を、断固とした身振りで押しとどめる。
五右エ門は息をのんだ。
一歩、また一歩と近づく。そして、龍世はゆっくりと刀を抜き放つ。その背には、殺気があった。
「やめろッ!」
思わず五右エ門が叫ぶ。と、同時に、黒い影がこちらに気づき、信じられぬ早さで女から身を離すと、木々を伝って逃げ出した。
「五右エ門、追え!」

龍世の声がする前に、半分無意識のうちに五右エ門は黒い影を追っていた。女と龍世のことも気になったが、とりあえずこの影を逃すわけにはゆかぬ。
桜の木々を伝い渡り、影はどんどん遠ざかる。
(速いッ!)
影は、相当な技の持ち主であるらしい。その身のこなしは、信じられぬほど軽い。
が、五右エ門も負けてはいない。里の誰よりも身軽であるとの自負もある。必死に木々を伝った。
舞い散る花びらに飲まれそうになりつつも、五右エ門は次第に影との差を縮めつつあった。

影を追い、どこまで来ていたか。
もう、剣が届くほどに五右エ門は影を追いつめていた。
スラリ、と斬鉄剣を抜き放つ。
「待てっ! 止まらぬと斬るぞ!」
五右エ門の声にも、影はいっこう止まる気配はない。やむを得まい。これだけ必死で逃げるからには、里と敵対している一族の者の可能性も高い。
ほんの一瞬振り返った影の目が、禍々しく紅く光っていたように見えた。全身が粟立つ。

五右エ門は、腕に力をこめ気合一閃、影の背に向けて刀をなぎ払う。
確かな、手ごたえ。斬った。そう思った。
その、刹那。
「わぁッ!」
影が、無数の桜の花びらと化す。
その桜吹雪は轟音を上げ、凄まじい勢いで五右エ門の顔に、体に吹きつけた。
突風と花びらに全身を叩きつけられ、たまらず五右エ門は木から落ちた。
息も出来ぬその苦痛の中、五右エ門は「影」を探したが、もはやそこには何の気配もない。
気を失う寸前、斬る直前にこちらを振り返った影の、ぞっとするような紅い双眸が脳裏をよぎって……
消えた。




「それで、結局どうなったの?」
不二子が小首を傾げながら訊いた。そこまで話した五右エ門は、ゆっくりと丁寧に記憶を辿るように話す。
「そのまま、俺は朝まで気を失ってしまったようだ。気づいたら夜が明けかかっていた」
「結局、その影は『何』だったの?」

五右エ門は、意外な思いで不二子の顔を見つめた。
ルパンほどではないにしても、身もふたもないほどの現実主義者の彼女なら、「影」が無数の桜の花びらになったという話など、決して信じぬと思っていた。
ルパンなら、影を女と逢引していた忍術使いの男だと考えるだろう。影は「誰」だったのか、と訊いたに違いない。
が、不二子は影の正体を「何」と訊ねた。

「わからぬ。あの時の俺にとっては、斬った途端に人の影が花びらになって散った、としか思えなかった。今、思い返しても、あれは忍術だった気がしない。……まあ、幼い日の記憶だからそう感じるのかも知れぬが」
「……桜の、化身だっていうの?」
五右エ門は、何も答えぬ。

「それで? 香乃って女はどうしたのよ」
「それも、しかとはわからぬ」
「……?」

五右エ門が、ようやく目を覚まし、朦朧とした意識とひどく疲れた体を引きずって、昨夜女を見かけたと思われる場所まで戻ってみると、そこには幽鬼のように立ち尽くす龍世の姿だけがあった。頬には、涙の跡が幾筋も残っていた。
女は、どうしたのか、五右エ門には訊けなかった。
訊くまでもなく、分かっていたからかも知れぬ。龍世の刀は、血に濡れていた。服は泥だらけになっていた。

先に帰れ、と言い張る龍世を、五右エ門は強引に里まで連れ帰った。独りで残しておける状態ではなかった。
が、その晩、周囲のものが目を離した隙に、龍世は自分の刀で咽喉を突き、自らの命を絶った……
女の姿も、その後見た者はいない。



「やーだ。美しいものがコワイだなんて! 怖いのは美しいものじゃなくって、それに執着する男のほうじゃないの!」
暗い話を切り上げるかのように、不二子は大袈裟に顔をしかめて見せた。
「男の嫉妬はコワイわね。もしその影が桜の化身だとしたら、女もとり憑かれていただけの被害者じゃない。勝手に嫉妬されて挙句の果てに殺されちゃうなんて……、私は女に同情するわ」

「本当に殺されたのかは、はっきり判らぬままなのだが……」
そう言う五右エ門の意味深な顔つきに、不二子は思わず聞き入る。
「その里を去る前に、一度だけ桜の季節にその森へ行ったことがある。その時は昼だったが。なぜか、無性に行ってみたくて、な。女の姿を最後に見た処、しかとは覚えていなかったのだが、ある場所で、俺は『ここだ』と確信した」
「……」
「桜の花がやけに紅い木が、一本だけ、あったのだ」
女が身に付けていた深紅の衣……。
「嘘でしょ、五右エ門」
「……さあ」
不二子は、周囲の降るような満開の桜を見上げ、ついで花びらに覆われた地面を見つめる。満月は、冴え冴えと照らす。
「ねえ、話の最後は嘘よね?」
五右エ門は、笑って答えようとはしなかった。

昔から夜の桜は妙に怖い……と思っていたのがこのお話のもとになったようです。この話を書くことにした直接のきっかけは、人が桜の花になってしまうとい う、やけに鮮明な夢を見たからなのですが。坂口安吾の「桜の森の満開の下」も大好きなので、これにもかなり影響を受けていると思います。
五右エ門なら、不可思議な物語も似合うのではないかと思い、不二子を聞き役として語らせてみました(^^)。五右エ門の一人称というわけではありませんが。
この中に出てくる香乃という女、敢えて一言も台詞を喋らせていません。このお話は「真実」がどこにあるのかハッキリさせない方がいいだろう、と思いまして。
香乃をしっかり書いてしまうと、出来事の真相がある程度ハッキリしてしまうもので。
彼女が「本当」はどういう女であったのか、五右エ門が「見た」のは結局何だったのか。読んだ方の想像にお任せしたいと思います(^^)

(01.8.10完成)

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送