運のいい男 (中)

インペリアル号の大西洋航海は、何事もなく最終日を迎えた。
呑気に船旅を楽しんだルパンとは対照的に、次元はさり気なくサイモンの様子を伺い続けた。
一つの街ほどもある広い船ゆえ、時折姿を見失うことはあったが、特に目立った動きはしていないようだった。動くとすれば、彼もまた最終夜を考えているのだろう。

この夜、船の持ち主であるジョーンズ主催の盛大なパーティーが開かれる。
一流シェフやパティシエを大勢招き作らせた、贅を凝らした特別料理と、最高級の酒が振舞われ、多くのショー等イベントもふんだんに用意されている。
この催しにはすべての乗客が招待されており、殆どの者が最終日の夜を楽しみにしているのだった。
勿論、他に目的があってこの船に乗り込んでいるルパンと次元は、数少ない例外である。

「さて、次元、そろそろ行くか」
「ああ」
腕時計に目を落とし、二人は立ち上がった。
ルパンは部屋を出て行く前に、再度鏡を覗き込み、今の己の姿を確認する。
「見れば見るほど陰険な面だよなぁ、ジョーンズってヤツはさ」
そう呟きながら、ルパンは世界的大富豪ジョーンズに為りきったその顔を軽く撫でた。
どこか爬虫類を思わせる、冷たく狡猾そうな細面の初老の男が、鏡の中からルパンを見返していた。
次元はからかうように笑う。
「結構似合ってるぜ」
「ご冗談。早いトコ済ませて、二枚目の俺に戻らなくっちゃ」
「どっちが冗談だよ」
軽口を叩きながら、二人は部屋を後にした。
とても船内とは思えぬほど、全てにおいて行き届いた室内であった。巨大客船の増えた昨今、インペリアル号の規模ではもはや世界最大級とは云えなかったけれども、最も煌びやかで華やかな船であることに異存のある者はないだろう。

だが、表立っては大富豪にして芸術のパトロンとして名高いジョーンズが、暗黒街でも相当な「顔」であることを隠しているように、この華々しい船も、一般人の目に触れぬ深層には暗い部分を秘めていた。
インペリアル号は、ジョーンズが裏で手を染めている、美術品の大規模な密輸・密売に利用されているのである。
それゆえ今、この船底には、ルパンが狙う彫像――ヴィーナスとキューピッド像が眠っているはずなのだ。
ルネサンス期に作られた小ぶりな彫刻で、その躍動感溢れる肉体と、情感に満ちた表情の美しさで、ことに有名な一品である。数十年前にとある美術館から盗まれて以来、行方不明になっていたものだ。
船底には、それ以外にも様々なルートで流れてきた品物で溢れているだろうが、ルパンが敢えて盗みたいと思えるものは、それしかなかった。
そして、多分、クラシカルな美術品専門に活動を続けているサイモンにしても同様だろうと思われた。

次元は頭に乗せている警備員風の帽子を、より目深にかぶりなおすと、慎重に廊下を見回した。
「静かなモンだな。お揃いでパーティーってわけか」
「だから今日が狙い目だったのさ。船全体が浮ついて、隙がある。……警備員みたいな格好しちゃいるが、船底を守ってるのはみんなジョーンズの荒事専門の部下どもだ。所詮ゴロツキ。今頃はこっそり酒を持ち込んでることだろうぜ」
ルパンはジョーンズの顔でニヤリと笑った。
周囲を伺いつつ、船底へ降りていく。パーティー会場からかすかに聞こえていていた音楽やざわめきも、次第に遠のき、やがてまったく聞こえなくなった。

「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた、第一の扉を開ける。
それまでの温かみのある瀟洒な内装とうって変わって、急に無愛想な鉄板の壁と階段が二人を迎えた。薄暗い空間が、下方に続いている。
「誰もいねえ、のか?」
「居ても大丈夫でしょ。なんてったって、今はホレ」
そう云って、ルパンは巧妙に変装した己の顔を指す。だが次元は逆に、見張りが少ないことに不安を覚えていた。
「そりゃそうだが……おい、ジョーンズ本人と鉢合わせってこたぁねえだろうな」
「大丈夫だって。上でやってるパーティーの主催者だからな、まだ少しはあっちにいるだろう」
静まり返った廊下を、気軽な様子で歩き続けるルパンの後を、次元はそれ以上云い募ることはせずに追った。

通路の奥の突き当たりに、再び扉が見えた。が、その前にはさすがに二人の警備員がたむろしている。
ジョーンズの神経質な用心深さのせいで、こんな船底に押し込められ、退屈しているのだろう。ポケットにから酒瓶を覗かせ、だらしなく壁に寄りかかりながら、他愛のない話を続けていた。硬質な空間に、彼らのがさつな声色はやけに響く。
ルパンはスーツの襟元を整えると、途端に別人のような歩き方をし、二人の警備員の前に姿を現した。次元もそれに続く。
ジョーンズの姿を見た二人の警備員は、驚きのあまり身を固まらせたが、慌てて姿勢を正した。
「異常はないかね」
威圧的な口調で、ルパンは問いただす。
だが、彼らがその問いに答えることは出来なかった。
素早く懐から取り出された催眠ガスを、たっぷりと吹きかけられたからであった。
ルパンと次元は口元を押さえながら、目を見交わして頷きあった。
倒れ伏した男たちを背後から抱えるように持ち上げる。雑多な荷物の詰め込まれている小部屋に、縛り上げて隠しておく手筈になっている。
「しかし重いなコイツら、何食ってんだ?」
「オツムの方は軽そうなのにねぇ」
重量級の男をそれぞれに抱え、二人はぼやきながらも何とか小部屋の中まで運び込むことが出来た。扉を閉めてから、念のために男を縛り上げる。

その時、通路に密かに足音が聞こえてきた。普通の人間ならば聞き逃しそうなくらいの、かすかな忍び足の気配。小部屋の扉に身を寄せ、通路に耳をそばだてた。
それは、足早に通り過ぎてゆく。
タイミングを計り、扉を細く開いて外を伺うと、警備員風の制服に身を包んだ細身の男が、暗い通路を左側に曲がっていくのが見えた。少しばかりの変装をしていたようだが、ルパンの目を誤魔化すことは出来ない。
「あれは……」
「多分、そうだろうぜ」
ここを行き過ぎ、左側に曲がった先に、美術品を隠した金庫室がある。
そのことから考えても、サイモンと見て間違いない。ルパンは好都合とばかりに目を輝かせた。
「まだまだ可愛いモンじゃないの。さ、俺たちも行こうぜ」



サイモン扮した警備員は、金庫室の扉の前を守る長身の男二人に、何やら話しかけていた。そこへ、ジョーンズに化けたルパンが勢いよく飛び出して行った。
「その男を捕まえろ!」
「……ジョーンズ、さん?!」
サイモンはもとより、そこに居合わせた警備員も、目を見開いて振り返った。ルパンは彼らの間に割って入り、サイモンに指を突きつけ激しくがなりたてた。
「お前、どこの者だ。え? こんなヤツを雇った覚えはないぞ! おい、早く捕まえないかッ」
船主のあまりの剣幕に、警備員二人は完全に呑まれて、サイモンの腕を両脇からしっかりと押さえ込んだ。
「さあ、お前たち、コイツをさっさとここから連れて行け! どこでもいいから放り込んでおくんだ、しっかり見張るんだぞッ」
ルパンはジョーンズに為りきり、傲慢に手を振って命令を下した。サイモンは見苦しい真似はしたくないということか、大して抵抗もせずに、うなだれたまま警備員に引きずられていった。


「イッチョあがりぃ」
ルパンはかぶっていたマスクをむしり取り、上機嫌で呟いた。が、彼の後ろで様子を見守っていた次元は、あまりのあっけなさに拍子抜けした思いだった。
「手応えのねえこった」
「まだまだこれからよ、次元ちゃん。今からこの金庫を開けなくちゃならねえしよ。それにサイモンをどこかへ監禁したら、あの警備員どもが戻ってくるだろうからな、そっちは頼むぜ」
「ああ」
着込んでいたスーツのあちこちから、ルパンはいくつかの道具を取り出すと、早速金庫の前に屈み込んで、開けに掛かった。
こんな船底にあるとは思えないほど、大きく近代的な金庫。薄闇の中で鈍く光っている。見るからに厚みのある硬質な扉を、ルパンの指先が慣れた手つきで探っていった。
冷えた静寂の中に、電子ロックを解除するための音だけがこだまする。

「おっと。開いた……ぜ」
「ん? もう開いたのか?」
ルパンの囁きに、次元は金庫室へと向き直った。大きな扉は、わずかな軋みもなくゆっくりと手前に開き、内部の暗闇を覗かせた。
「そ、開いちまったのよ。ズイブン見掛け倒しな金庫だよなぁ。ま、俺の腕がいいってのもあるけっども」
「へ、気取るなよ」
予想外に早く降参してきた金庫を、ルパンも次元も不思議そうに見上げていたその時だった。

「動かないで。そのままゆっくり手を上げるんだ、お二人さん」
いつの間にこれほどの接近を許してしまったのか。唐突に開いた金庫に、注意を奪われ無駄口をきいていた僅かな隙としか考えられないが、それにしても迂闊なことであった。
ルパンと次元の背後には、狙いを定めた銃口が二つ、突きつけられていた。
振り返るまでもなく、その声はサイモンのものと知れた。
仕方なく、ルパンは両手をあげる。横目でそれを確かめてから、渋々次元も同じことをした。
「失礼」
あくまで慇懃に、声を掛けてから、ルパンのジャケットの内側に手を差し入れ、ホルスターからワルサーを引き抜いた。続いて次元の腰からも、マグナムが奪い取られた。
「この野郎……」
上げている次元の手が、ピクリと震える。が、ルパンは目線でその動きを制した。
「さあ、立ち去るのはあなた方の番ですよ」
「そうかなぁ?」

両手は無造作に降伏の形を作りながら、ルパンはごくゆっくりと、サイモンの方へと向き直った。
先ほど、サイモンの監禁を命じたはずの警備員のうちの一人が、銃を向けている。
カジノで見かけたサイモンの仲間の、長身の男であった。付け髭で印象を変えていたせいもあるが、何度見ても記憶の網から抜け落ちていくような、特徴のない顔つきだ。
次元からマグナムを奪ったのは、この男の方だったらしく、ベルトにずさんに突っ込んだままだ。
「なるほどね、相棒サンの方はもう入れ替わり済みだったってわけか」
「そういうことです。わざわざ親切に、私の相棒に突き出してくれるんだから、何の冗談かと思いましたよ。しかも戻ってくる間に金庫まで開けてくださって……感謝しますよ」
相変わらず穏やかな、だがしてやったりと云いたげな微笑が頬に刻まれる。
が、嘲笑はその場で凍りついた。

突然、サイモンの相棒が声もなく崩れ落ちたのだ。
次元は勿論、ルパンも変わらず両手を上げたまま、身動き一つしていない。
一体何が起きたのか。銃だけはしっかりと構えたまま、倒れた仲間とルパンたちを交互に見やった。
お返しとばかりに、ルパンは意地の悪い笑いを投げかけた。
「安心しな、死んじゃいねえヨ。すぐに目を覚ますさ」
「……」
安心など出来るわけがない。どうやってルパンが、仲間を眠らせたのか彼にはまだわからないのだから。相手が相手だけに、サイモンとしては向こう見ずに発砲することは躊躇われる。
考え込むその額に汗が滲む。
そんな彼を、ルパンは面白そうに覗き込んだ。
「アンタには、弾が当たらねえんだってな? 今も自分のラッキー神話とやらを、信じるかい?」
「……ええ」
用心深く、だが昂然と頭を上げて、サイモンは肯定した。自分のこれまでの幸運を思い出したせいか、彼の面には熱い自負心が立ちのぼる。初めて見せる、気迫のこもった面持ちだった。
それを見取り、ルパンは楽しげに云った。
「上等」

シュッと、空気が小さくこすれる音がした。
その瞬間、わけもわからずサイモンは身体を傾けた。
彼の動きは、単に動物的本能に従ったものに過ぎなかった。“何か”の気配に、考える間もなく身をすくめて、反射的に身体を避けただけだった。
だが、結果的にそれは見事に正しい反応となった。
チリン、と金属の触れ合う音が響く。
足元に、目を凝らせねば見ることも出来ぬほどに細い、針が数本散らばった。
偶然にも――サイモンの着けているネクタイピンに当たり、ルパンの放った麻酔針は虚しく弾かれたのである。

「麻酔針ですか」
サイモン自身驚きを隠せぬ様子で呟いた。
ヒュウと、ルパンは口笛を吹いた。驚いているとも、賞賛しているともとれる、音色だった。
「どうやら、あなたのネクタイピンに仕掛けがあるようですね」
ルパンは鷹揚に頷く。
正確に見抜いたサイモンであったが、形勢逆転とまでは行っていない。彼が麻酔針を本能的に避けたそのわずかの隙に、次元は足元に倒れている男から落ちた、自分のマグナムを拾っていたのだ。
僅かの間、身動きするものもなく、その緊張感は極限まで張りつめた。

それを破ったのは、ルパンの高笑いだった。

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