予言 (前)

右腕から流れ落ちる血をおさえた時、不意に昨晩の出来事が次元の脳裏をかすめた。
(血が! 血が流れる……気をつけなされ)
場末の酒場で出会った、酔っ払いの老婆の戯言。
こんな時にどうかしている。いや、こんな時だからこそ思い出したのだろうか。

太い柱の陰に身を隠し、上着を脱いで止血を試みる。出血は多いが、それほど深い傷ではない。だが、左腕だけでは思うように応急処置ができず、もどかしさに舌打ちした。
「次元!」
向かい側の半壊した古代劇場の屋根の上から、ルパンがひょいと顔を覗かせた。柱を伝って、そこから身軽に降りてくる。
次元の隣にしゃがみこむと、裂いたシャツを彼の手から奪い取った。
「ルパン、ヤツは……」
「五右ェ門が相手してるはずだ。心配ねえ」
「だといいが」
ルパンは、答える代わりに傷口をきつく縛った。次元は痛みに眉をしかめた。
「行けるな?」
「ああ、大丈夫だ」
二人は並んで立ち上がり、夜の闇に浮かび上がる白亜の古い小さな街を見据えた。
過去の栄華を伝えるかのように、二千年前の街並みをよく残しているが、今は誰も住む者のいない無人の廃墟だ。そそり立つ円柱の多くは折れ、石畳はめくれ上がり、壮麗な建物の数々は半壊している。

本来ならば、こんなところに用はない。
近くの街でカジノを襲い、見事大金をせしめた彼らは、ヘリコプターで国外へ逃亡するところだったのだ。
しかし、そう簡単には事が運ばなかった。そのカジノには、腕が立って滅法荒っぽい用心棒が居た、というわけだ。
ヘリコプターを墜落させただけでは飽き足らず、わざわざとどめを刺しに追ってきた用心棒の目的は、金を取り戻すこと以上に、ルパンたちの命であるようだった。


一発の銃声が、夜空に響き渡った。少し間を置いて、もう一発。
ルパンと次元は顔を見合わせ、音のしたほうへ揃って駆け出した。まばらに下草の生えた石畳を蹴り、壁を失った建物の中を突っ切るようにして、左へ折れる。
「カジノの用心棒風情に、まさかこんなに手こずるたぁ……俺たちもヤキが回ったかねぇ?」
それでもまだ、不真面目そうな笑いを口元に漂わせながら、ルパンは呟いた。次元も苦笑いで応じる。
「かもしれねえな。昨日の婆さんの予言も、あながち馬鹿にできねえザマだ」
「あン?」
ルパンは一瞬、次元の云ってることがわからなかったようだ。彼にとっては、わざわざ記憶するほどの出来事ではなかったのだろう。が、さすがに思い当たったらしい。素っ気なく、それでいてからかっているような調子で云い返してきた。
「くっだらねえこと気にしちゃってぇ。だ〜から不覚を取るんだぜ」
違いない。ルパンの云うとおりだ。次元は自嘲した。
二人は、おぼろな月明かりの中、走り続けた。


◆ ◆ ◆


ルパンら三人が奇妙な“予言”をされたのは、昨夜のことだった。
カジノ襲撃という仕事を翌日に控えていたが、そのために酒を絶って備えるような彼らではない。むしろ成功の前祝とばかりに、軽くグラスを傾けたくなる。
その日は五右ェ門も付き合いの良さを見せ、三人揃って夜の街に出た。
ダウンタウンの一角にある古びた店。彼らが難なく埋没できる、どこか胡散臭い人間たちの集まる店。あまり馴染みのない街ではあったが、そういう店を見つけるのは慣れている。

三人は、居心地良く適度に騒がしい店に腰を落ち着けると、ゆっくりと杯を重ねた。
そこで出されたグラッパの力強い味は、五右ェ門も気に入ったらしく、いつになく楽しげに飲み続けていた。すっかりいい気分になった三人とって、翌晩の仕事は成功したも同然だった。
夜が更けると店内はますます活気を帯び、周囲も賑やかさを増した。
そんなざわめきの中、しゃがれているのに不思議とよく通る声が、ふいに三人の耳を打った。

「あんたたち、行ってはいけないよ。危険だ」
声の主は、それまでカウンタに座っていた老婆だった。彼女はかなり酔っ払っているらしく、ふらふらとした足取りでルパンたちのテープルに近づきながら、云った。
「血だ、血の匂いがするよ」
皺深い顔に、異様に見開いた目だけが奇妙なほど光ってる。節くれだった指を震わせ、三人に順々に突きつける。長く伸びた爪はまるで魔女のようだった。
「あんたも、あんたも、そしてあんたもだ。血が流れるよ……」
「おい婆さん、飲みすぎだぜ」
次元が軽くいなしたが、老婆はまるで聞く耳を持っていない。三人の顔を交互に見つめながらも、視線は遠くを彷徨っており、執拗にその言葉を繰り返すのだった。
「血の匂いだ……」
「あーら、バレちゃったかしら。俺たち吸血鬼なのよ。近寄ンない方がいいぜぇ」
おどけて歯をむき出しにしてみせるルパンだったが、それも老婆の目には入っていなかった。瞳はうつろで熱っぽく、痩せこけた顔には畏怖が滲んでいる。

「男だ。一人の男があんたたちを……! ああ、気をつけなされ。行かない方がいい」
「行くなったってねぇ」
戸惑う三人をよそに、老婆の身体はますますこきざみに震え、その顔は奇妙にゆがんでいく。何とか言葉を絞り出そうと、皺のよった口元を喘がせた。
あまりに鬼気迫る様子に、三人は思わず次の言葉を待ち受けてしまった。
「倒せないんだよ、その男は。女の胎から生まれた者には、決して」
老婆は、重々しくそう告げた。

「何だい、『マクベス』かぶれか」
次元は急に関心をなくして、つまらなそうに肩をすくめた。
それまで、表情を動かすことなく老婆をじっと見つめていた五右ェ門だったが、「マクベスかぶれ」という言葉を聞くと、気が抜けたように目を逸らした。
最初から真面目に聞いていなかったルパンは、明るく笑って調子を合わせた。
「わかった、わかったよ婆さん。マクダフでも連れてって、せいぜい用心しまショ」
「そうしなされ」
やっと話が通じる相手に巡り合えたと云わんばかりに、老婆は身を乗り出してルパンの手を握り締めた。そのまま口の中で何かぶつぶつ呟いていたが、やがてルパンの手を離し、ゆらゆらと上体を揺らしながら危うい足取りで店を出て行った。

「なーんだアレ」
「可哀想に、イカレちまったのかな」
水を差されてすっかり白けてしまった。ちょうどグラスも空いていたことだし、夜も更けている。三人は滞在しているホテルへ帰ることにした。
勘定をもらいに来た店主は、さっきの一部始終を見ていたらしく、弁解するように云った。
「独り言は多いけど、普段は見知らぬ人にあんなおかしなことを云ったりしない、無害な婆さんなんですよ」
「占い師でもやってるのかい?」
次元が数枚の札を渡しながら尋ねる。店主は首をかしげた。
「さあ……どうなんだか。最近になって時々ふらっとやって来るようになってね。いつもは一人隅のほうでちびちび飲んでるだけなんだけど」
「元はシェークスピア女優かもしれねえぜ」
ルパンはそう云って話を打ち切った。


◆ ◆ ◆


それだけの出来事だったのだ。
その記憶が今、不思議と五右ェ門の脳裏に浮かび上がってくる。
(こんな時に……!)
自分を訝しく思う気持ちは、先ほどの次元と同じであった。しかし五右ェ門の方がより切実であったかもしれない。
老婆が云った「あの男」は、紛れもなく彼の前にいて、月光を背に異様な力を見せつけていたのだから。

銃を持つ者が、斬鉄剣を武器とする五右ェ門と対する際、普通は刀の届く範囲に入りたがらない。出来るだけ距離を保とうとする。それが当然である。
だが男は平然と五右ェ門に接近を許した。手にした無骨な銃は、こちらに向けられていたが、引き金を引く気配がない。嘲笑うように、不気味に唇を歪ませている。しかしその黒い瞳は、冷徹そのものであった。
すでに抜刀していた五右ェ門は、いつでも斬れる程近づいたというのに、その隙を見出せないでいた。
威圧されたわけではないが、この男を見くびる気には到底なれない。長身から得体の知れぬ力が感じられた。
古い街の広場の真ん中で、しばし睨み合ったまま、二人はじりじりと円を描くように足場を変える。男が背負っているライフルが、その都度カチャリと鳴った。

男の上体が、ごくわずかに左に傾いた。
その隙に乗じて、五右ェ門は一気に接近を試みた。だが、それが誘いであったことに、五右ェ門は斬鉄剣を振り上げた瞬間、ようやく気づいた。
男は待ち受けていたかのごとく左手をかざし、無造作に斬鉄剣を掴んだ。
鋭い衝撃に火花が散り、金属的な音が響く。五右ェ門は息を呑んだ。
長めの袖から覗いた男の左手は、黒光りする金属で出来ていた。きわめて精巧な義手だった。
斬鉄剣をも受け止めるとは、相当特殊な金属なのだろう。その手に掴まれた刃先は、ぴくりとも動かせない。凄まじい力だった。
ぎりぎりと軋みつつ、斬鉄剣は次第にねじり上げられていく。拮抗していた力が、男の方に傾きつつあった。
「くっ……!」
斬鉄剣から手を離すことを、五右ェ門は躊躇した。ごくわずかな躊躇いを、男は当然見逃さなかった。
右手に握ったままの銃を軽々と持ち上げる。五右ェ門はついに両手を離した。
銃声が至近距離で鳴り響く。衝撃が身体を貫いた。

ぎりぎりのところで身を捩って逃れたが、銃弾はわき腹をかすめていた。痛みよりも、激しい熱さを感じた。
五右ェ門は無我夢中で地を転がり、白い円柱の陰に飛び込んだ。二発目の銃弾は、その柱に命中した。
男が一歩一歩近づいてくる。余裕の足取りだ。
このままではやられる。
五右ェ門は柱に寄りかかりつつ、周囲を見回した。逃げるにしてもこの怪我では限度がある。わき腹から、じわりと鮮血が滲み出している。
斬鉄剣を手放してしまったことが、何よりも悔やまれた。

「五右ェ門!」
広場の反対側から、ルパンが走ってきた。その後ろには次元もいる。
男は、自分が挟まれた格好になったと見るや、迷う素振りもなく身を翻し、瞬く間に退却していった。
「おい、五右ェ門?」
投げ捨てられている斬鉄剣に驚きの目を向ける。ルパンはそれを拾い上げ、次元と共に折れた円柱の陰まで持って行った。
「どうした、大丈夫か」
「大したことはない」
わが手に戻ってきた刀を、五右ェ門はしっかりと握り締める。
彼の出血を心配そうに覗き込んでくる二人に、強く頷き返した。斬鉄剣を手にして、五右ェ門は気力を取り戻していた。

ルパンは、揃って怪我を負った相棒二人を、少し困ったように見つめた。
「なんてザマだい、天下の名ガンマンと剣豪の名が泣くぜ」
「面目ござらん」
「悪かったな」
二人は素直に答えた。ルパンも端から彼らを責めるつもりなどない。軽く笑って受け流した。
「とにかくさっさとここを逃げ出そうぜ。三人居た用心棒のうち、二人は片付けたから、問題はあのデカブツだけだけっども……。俺たち三人揃えば、さすがにヤツに勝ち目はねえさ。それを察して、ヤツの方で逃げたんじゃねえのかな?」
ルパンの楽天的な言葉に、二人は同時に首を振った。
あの男が、このまま易々と逃がしてくれるとは思えない。身を潜め、彼らを倒す機会を伺っているのではないか。
そして次元がこう付け加えた。
「油断しない方がいい。ヤツは、マイク・ギャレットだ」

五右ェ門が問う。
「何者だ?」
「元は有名な傭兵だ。どんな悲惨な戦場からでも、彼だけは生きて戻ってくるってな」
「相当腕の立つ男のようだな」
「だが評判はどこへいっても最悪さ。敵に対するあまりの残酷さと、いざとなれば仲間も平気で切り捨てるやり口のせいらしいが……仲間が全滅してもヤツだけ生き残ることが多すぎて、『疫病神』だとか、『悪魔と取引した男』だなんて呼ばれてたって話だ」
「それがいまや悪徳カジノの用心棒ってわけかい。ふぅん」
ルパンは口をへの字にひん曲げ、考え込んだ。

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