脱出不可能 (前)

分厚い扉の閉まる音は、ひどく硬質だった。
そしてそれに続く、鍵のかかる音も。
薄暗く、狭く、何の飾り気もない部屋の中に、それは無情に響いた。
人によっては、絶望そのものの音と感じたかも知れぬ。
だが、その時のルパンが感じていたのは、己の足の裏の冷たさだけであった。
すでに固く閉ざされた扉に向かって、ルパンは気安く呼びかけた。
「とっつあ〜ん、靴下くらい履かせてくンない? 寒いったらねぇや」
ルパンは、薄手の囚人服だけを身にまとうことを許されてはいたものの、それまでに全身を徹底的に調べ上げられ、靴や靴下までも奪い取られているのだった。寒そうにブルッと身をふるわせる。
「我慢しろ。お前には、それ以上与えられるものはねぇんだ。……何をしでかすか、わからねぇからな」
静かに無表情を保つ銭形の顔が、扉に小さく開かれた空間から覗く。
開かれているといっても、そこには目の細かい金網が張られ、指一本牢の中へ入れることも、出来ない。金網越しの銭形の顔は、いっそう黒く翳っている。
牢の中に閉じ込められた男に対して、その表情がわずかに歪む。何か、云いたげな様子にも見えた。

それに気づいたルパンは、一度大きく目を見開いた後、不真面目そうに口の端をつり上げた。乾いた笑いだった。
「ホントにひっでぇ牢獄だなぁ。悪名通りだね、コリャ」
世間話でもしているかのような口調だ。
しかしルパンの目は、いまだ油断ならない光を放ち、何気ない様子で周囲をうかがい続けていることを、銭形だけは気がついていた。
「ルパン、こうなったからには、大人しくしていることだ。脱獄しようとしても、無駄なんだからな」
こんな言葉が、この悪党の闘争心に火をつけこそすれ、素直に受け入れられることなどあり得ないと、銭形ほど知っている人間もいなかっただろう。それでも彼は、他の台詞は持ち合わせていないのであった。
本当に云いたいのは、もっと全然別のことであるはずなのにという、内心のもどかしい気持ちはある。だが、銭形は密かにそれを圧し殺した。

獄中に置かれた寝台の上に、ルパンは座り込む。寝台といっても、ゴツゴツした見るからに固そうで、大の男が身を休めるにはあまりに狭いものではあったが。
「ま、しばらくはここでゆっくりさせてもらうヨ。寒くて貧乏くさくって、俺の趣味じゃねぇけっども。静かなことだけは間違いねぇみたいだから、たっぷり寝られそうだぜ」
銭形は、仏頂面でただ頷いた。
そして、ルパンを逮捕し、この独房まで送り届けるという大役を果たし終えた彼は、ゆっくりと去って行った。
それほど長くもない廊下を歩み去る銭形の足音がついに消え、独房と他のエリアをつなぐ唯一のドアが、重々しく閉ざされた。
あとには、ただ耳が痛くなるほどの圧倒的な静寂が残される。
それをわざと打ち破るかのように、ルパンは粗末な寝台の上にゴロリと横になると独りごちた。
「……えれぇところに来ちまったかなぁ」
どこかとぼけた、飄々たる呟き。
雲間から月が姿を現したらしく、淡い光がわずかに差し込み、ルパンの元へと届く。
外界と接するただ一つの窓は、きわめて小さく、しかも防弾ガラスと鉄格子で二重に遮られていたが、それでもこうして月の光は届くのだ。明日になれば、砂漠の苛烈な太陽ものぞめることだろう。
「ま、どうにかなるでショ」
そう云うと、ルパンは足元の薄汚い毛布を引き上げ、寒そうに包まって目を閉じた。


ルパンが収監されたのは、「砂の監獄」と異名をとる悪名高き刑務所であった。
周囲を広大な砂漠に囲まれた、文字通り陸の孤島にある監獄。
それはまるで蜃気楼のように、砂漠の中に威容を誇っていた。見上げるばかりに高い塀が、幻の城の如くそそり立つ。
また、非常に寒暖差が激しく、乾燥した空気とあいまって、囚人の置かれる環境が過酷なものであることもよく知られている。食料も水も、ごく最低限のものに限られ、一時期人道的問題になったことすらあるほどだ。
ここから逃げ出そうと試みる者は非常に多かったが、成功率は皆無に等しい。
まずもって警備の絶対的な厳しさが脱走を妨げ、仮にそれに成功したとしても、今度はどこまでも続く広大な砂漠が、天然の牢獄の役目を果たす。逃げ切れるものではなかった。
そんな「砂の監獄」の中でも、最も厳重な監視がなされる特別独房に、今ルパンは居る。
五階建てで「コ」の字型をした監獄の、縦棒部分の最上階・最奥にあたる部屋。そこがルパンの独房である。
そこへ至るためには、様様なチェックと、屈強な刑務官の目が光る三つのゲートを通り抜けねばならない。
彼に許されるのは、日に二度の質素な食事と、刑が確定するまでは弁護士との、確定後は牧師との面談だけなのであった。

しばらくの間、薄汚い天井をじっと見つめて考え込んでいたルパンであったが、窮屈そうに寝返りをうつと、やがて呑気な寝息を立て始めた。


◆ ◆ ◆




ルパンに最初の救助の手が差し伸べられたのは、収監後わずか三日のことであった。

不審な小型ヘリコプターが近づくのを、監獄の看守たちが見逃すことはなかった。
瞬く間に警戒態勢が敷かれる。傍を通り過ぎるだけのようにも見えたが、そのヘリコプターは次第に高度を下げて来る。
看守たちは慌しく武器を取り出す。要塞のような監獄の屋上から、あるいは高い監視塔の上から、一斉にヘリコプターに照準を定めた。
ヘリコプターは臆することなく、爆音を轟かせながらなおも高度を下げる。
そこから、一人の異国の男が姿を現した。
黒い総髪と、白っぽい和装を吹きつける熱風になびかせている。
石川五右エ門であった。
わずかな躊躇もなく、開け放たれたヘリコプターのドアから、彼は身を躍らせた。監獄の看守らは、この無謀な異国人の登場に面食らいながらも、命令一下、引き金を引いた。
パラシュートが開くと同時に、五右エ門は斬鉄剣を抜き放っている。
彼に向けられた銃弾をのすべてを、余すところなく斬り落とす。真っ二つにされた弾丸は、熱い飛礫となってパラパラと地上に降り注いでいった。その妙技に、看守たちは肝を冷やした。

地上に近づくにつれ、それでも何発かの弾がパラシュート上部をかすめていった。急速に中の空気が抜けていく。
だが、五右エ門は一筋の動揺も見せずに、剣を一閃させると、パラシュートから己を解き放った。
近づいたとはいえ、まだ相当な高度があった。にも関わらず、五右エ門は軽々と身を翻すと、難なく地上に降り立ったのである。

そこは、コの字の監獄の真ん中の空間――中庭として使われている場所であった。
ちょうどその時、囚人たちの運動の時間に当たっていた。当然周囲は、大袈裟に武装した看守たちに囲まれていたけれども、それでも外の空気を吸い、ある程度自由に身体を動かせる機会とあって、多くの囚人たちが三々五々に集っていた。
そんな最中の突然の銃声と、空からの闖入者の登場に、誰もが驚愕した。
奇声を上げ、悪乗りをして興味本位に近づこうとする囚人もあったが、五右エ門の手に握られている刃の物騒な輝きに気づくと、すぐさまたじろいだ。
看守が武器をちらつかせ懸命に「動くな!」と威嚇してはみるものの、五右エ門はまるで聞こえていないかのように、それらを無視する。
眼光鋭く周囲を一瞥するや、叫んだ。
「ルパン! どこにいる! 返答せいっ」

応えはなかった。
「ルパン!!」
叫びは虚しく風に散る。
見慣れぬ異国の服をまとい、弾丸さえも跳ね除ける恐るべき剣技を持つ男は、苛立たしげに左右を見渡す。
看守たちは、それでもマシンガンを向け、じりじりと五右エ門を包囲し始めていた。
次の瞬間、聞きなれた声が届いた。
「生憎だったな。ルパンはここへ出てきやしねぇぞ」
恐ろしげに、だが興味津々の様子で、異様な闖入者と、武装した看守を眺める囚人たちの間から、ゆっくりと現れたのは銭形だった。五右エ門は油断なく身構えながら、視線を向ける。銭形は続けた。
「あいつは例外的な扱いを許された特別囚人なんだ。散歩すらさせちゃもらえねえのさ」
「ふ……本当に特別扱いらしいな。ルパンを逮捕した後も、警官であるお主がこうして監獄に詰めていなきゃならんほど、か」
「特別扱いなんかしちゃ、うぬぼれの強いあいつが喜ぶだけだがな」
はき捨てるように云うと、銭形は軽く手を挙げて合図した。看守たちは、どっと五右エ門に押し寄せる。

高く、目を疑うばかりに高く、五右エ門は跳んだ。
砂漠地帯の容赦ない陽光が、彼の姿を白く塗りつぶす。彼の姿を追った人々は、一瞬目がくらんだ。
彼は、包囲しかかっていた監視人たちを、常人離れした跳躍力でかわそうとした。
投げ手錠だけが、正確に五右エ門の跡を追った。だが、斬鉄剣が閃くと、手錠は粉々に砕け散った。

それが合図であったかのように、どっと乱闘が繰り広げられた。
何が起きたのか、正確に把握しているものは、もはや存在しなかった。
五右エ門はまるで自棄になったかのように、暴れに暴れた。
五右エ門から逃れようとする囚人、あるいはこの騒ぎに乗じて監獄から脱出しようと右往左往する囚人たち。
軽々と身を翻しては、彼らの中に飛び込み、刀をふるう。
囚人も看守もお構いなしに、マシンガンも制服も、囚人服も、斬って斬って、斬りまくった。
同士討ちを恐れて、発砲できるものはいなくなった。物騒な闖入者を取り押さえようとする者と、暴動を起こしかねないほど興奮した囚人たちを、元の牢へと戻そうと躍起になる者が入り乱れる。
銭形は大声を張り上げ、時に邪魔な囚人を突き飛ばしたが、目的の侍は遠ざかるばかりであった。

やがて、再びヘリコプターの音が近づいてくる。
塔の上から攻撃を仕掛けてはいるものの、ヘリコプターには装甲板が張ってあるらしく、殆どダメージは与えられていなかった。
ヘリコプターは、中庭に居る人間をあざ笑うかのように、思いきり高度を下げては上げ、曲芸並みの操縦技術を見せつけた。
ローターが舞い上げる猛烈な風と砂埃に、誰もが目を覆い、咳き込んだその時。
ヘリコプターから下ろされた縄梯子に、五右エ門が素早くしがみついた。
「待てッ!」
だが銭形の絶叫が届くことはなかった。
五右エ門を飲み込むと、ヘリコプターは急速に高度を上げ、あっという間に消えていった。

中庭は惨憺たる有様であった。
五右エ門によって服を切り刻まれ、半裸になった囚人たち、看守たちが騒然と騒ぎ立てる。洋服の切れ端が、乾いた風にさらわれて飛んでいく。いくつもの武器が無残に鉄屑と化していた。
この機に乗じた脱走を食い止めようと、あちこちで乱闘が続く。威嚇する銃声が幾たびも空に響いた。
その騒ぎがどうにか収まったのは、五右エ門の登場から二時間近くもたってからであった。


◆ ◆ ◆



「異常はないか」
独房へと続く廊下の前にある、看守たちが詰めている小部屋に、銭形は顔を出した。「砂の監獄」内の関係各所をこうしてまわるのが、日課になっている。
どこから、どんな手段で、ルパンは逃げ出さないとも限らない。ありとあらゆる場所に目を配っておく必要があった。
特に数日前、五右エ門が手荒な手段でルパン奪還を目論んだとあって、いまだ刑務所全体にどことなくピリピリした雰囲気に包まれている。
銭形に声を掛けられた看守は、緊張した面持ちで「ハイッ」と答える。
彼は、今ルパンに出す夕食を調べているところであった。
硬そうな黒パンと、野菜と豆がわずかに浮いたスープ、それに古そうなチーズがほんのひとかけら。
そこに何かが紛れ込んだりしないよう、パンやチーズはいくつかにちぎって調べられる。元々小さかったチーズなど、無残な様子に成り果てていた。

「質素な食事ですね」
突然、女の声が割り込んできた。
グレーのスーツを上品に着こなし、細い金縁の眼鏡をかけた、黒髪の女が立っている。――ルパンにつけられた国選弁護人である。
彼女はちょっと失礼、と云って銭形を脇へ押しやると、その食事をじろじろと眺め、パンをつついた。
「ずいぶん硬いパンだわ」
哀れむように、ほうっとため息をつく。
「何か法的に問題でもありますかな?」
勝手にこんなところまで入り込んできた弁護士を、大きな目で睨みつけ、銭形はむっつりと問う。この刑務所内の規定の食事内容なのだから仕方あるまいと、表情だけで雄弁に語っている。銭形が望んでこうした扱いをしているわけではない。
これでも、食事内容はずいぶん改善されたのだとも聞く。
女弁護士は、静かに首を振った。文句を云うつもりはないらしい。
「持っていってやれ」
銭形が手を振ってそう指示すると、食事係の看守は、安心したように部屋を出て行く。もう一人若い看守が付き添うように、二人でルパンの独房へと向かっていった。

「ルパンに近づくものは二人一組で行動させているんですね。これなら、仮に不審者が看守に化けて紛れ込んだとしても、おかしな真似はしにくい、というわけですか。念入りで…完璧な警備ですね」
「……今日はルパンへの接見の日でしたかな」
女弁護士のいくぶん皮肉めいた賞賛には答えず、銭形は問いかけた。
「ええ。時間に少し遅れましたが。食事の時間にぶつかってしまいましたね。どうしようかしら」
云いながら、彼女は何気なく小部屋を出る。独房へ続く廊下と、こちら側を分断している鉄格子のゲート前には、厳しい看守二人が手を後ろに組んで立っていた。彼女は、独房の様子を遠くからでも伺いたいかのように、鉄格子に軽く触れる。
「おいッ」
即座に銭形の怒声が飛んでくる。女ははじかれたように、鉄格子から下がった。
「いくら弁護士だからって、勝手にうろつかれちゃ……」
云いかけた銭形の目が、さらに大きく見開かれた。その視線は、女弁護士が触れた鉄格子に釘付けになる。
ハッと身構え、銭形は女に向き直った。
「お前はッ」

「さすが目ざといわね!」
女の声は、さっきまでの物静かな弁護士のものではなくなっていた。柔らかな、不二子の声で叫ぶ。
彼女に飛び掛ろうとしたその時、銭形の視野が肌色に塗りつぶされた。
取り去った「女弁護士」のマスクが、顔面に叩きつけられたのだ。
慌てて振り払った時には、彼女はすでに逃げ出していた。
立っていた看守二人が、反射的に銃を取り出し、後を追おうとする。が、銭形がそれを押しとどめた。
「持ち場を離れるな! それが狙いかもしれん!」

不二子はあまりにも素早かった。
事前に開けておいたのか、鍵のかかっていない窓から、軽々と外へ飛び出すと、ジープを駆って正面から堂々と出て行った。
門を閉めさせる時間すらないほどあっという間の出来事だったということもあるし、銭形が本気で追いかけようとしなかったせいもある。
「不二子め……」
銭形は低く呟いた。
彼女が何気なく触れた鉄格子の鍵の部分を調べてみると、超小型のプラスチック爆弾が巧妙に仕掛けられていた。
不二子の変装に気づかなかったら、危ないところだったかもしれない。「弁護士の面会」として女を独房まで行くことを許し、同様の爆弾をあちこちに仕掛けられていたら――と思うとゾッとする。
彼女の通り過ぎた場所を一通り調べ、他には特に変わったところがないとわかると、銭形の肩の力が少しだけ抜けた。
不二子による、ルパン救出作戦は未然に防げたようだ。

しかし。
銭形は眉根を寄せて考え込む。
このまま、ルパンをこの監獄に置いておいて大丈夫なのだろうか。
確かにこの国では、ここ以上に管理が厳しい牢獄はない。ここならば、ルパンですら逃げられまいと思ったからこそ、収監させたのであるが……。
こうも立て続けにルパン一味が、彼の脱獄を助けようと、あれこれ仕掛けてくるとなると、極秘にルパンを別の場所へ移すことも考えた方がいいのではないかと思われてくる。
ひとり銭形は、深く、物思いに沈み込んでいった。




「あーら、どうやら不二子ちゃんも失敗しちゃったみたいね」
わずかに聞こえていた、刑務所内の騒ぎは、もうすっかり収まったようである。望んでいた「面会」は結局、実現しなかった。
「この間の五右エ門といい、不二子といい、とっつあんにしてやられちゃって。だっらしねぇぞ」
何を思ってか、ルパンはクスクス笑いながら、冷め切った食事にようやく手を伸ばした。
看守によってすでに三つに分けられている黒パンの、一番大きな切れっ端を取る。
さらにそれを半分に割り、中をそっと指で掘った。
やがて、底知れぬ不敵な笑みがルパンの顔を彩った。

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