不在 (前)

酒場の喧騒に身をゆだねながら、次元はグラスの中のバーボンを飲み干した。
かなり杯を重ねたが、まだ酔える気配はない。
カウンターの向こうにひっそりと佇む無愛想なバーテンに、グラスをかかげてお代わりを促した。
俯き加減に煙草に火をつけたその時、背後のざわめきが一瞬だけ冷ややかさを帯びた。違和感を感じて、次元は何気なく振り向いた。
一人の男が、店内に入ってきたところだった。

店の中に溢れているゴロツキどもは、再び騒々しく喋りたてはじめたが、たった今入ってきたその男に、まだ怪訝そうな目を、あるいは敵意を含んだ目を向けている者も多い。
明らかに彼は、ここに集まるものとは違った空気をまとっていたからである。

「銭形……」
こちらへまっすぐに近づいてくるその男――銭形を認め、次元は思わず身構えた。当然、強い警戒心が働く。
そんな彼に対して、銭形はぶっきらぼうにうなずきかけると、何の断りもなしに隣の席に腰をおろした。
「まあ、座れ」
「……」
お前さんに云われなくとも、と喉元まで反抗的な言葉が出掛かった。が、銭形のいつもとは違った態度に、次元は静かな好奇心を覚えずにはいられなかった。とりあえず、黙って云われたとおりにする。
胡散臭そうな視線を投げかけているバーテンを気にするそぶりもなく、銭形はウィスキーを注文すると、煙草に火をつけた。
そこでようやく、次元も自分が煙草を咥えていることを思い出した。ゆっくりと、紫煙を吐く。
その間、まだ口を開かず隣で横顔だけを見せている銭形を、横目で伺った。
厳つい顔は、いつもより沈鬱そうな表情を浮かべているようにも見える。

銭形が一口酒を飲むのを待ってから、次元は小声でそっと囁いた。
「とっつあん、云っとくがな、こんなところで手錠を振り回したりするんじゃねえぞ。ここは本来、あんたのような堅気の人間が、たった一人で来るような店じゃねぇ。ましてや刑事だなんて知れたら、何が起きるか保障はできねぇよ」
「自分の身くらい、自分で守れるわい」
次元の忠告は、案の定憮然と受け流された。
予期していた反応だったので、次元も肩をすくめただけだった。
銭形に今ここで騒ぎを起こす気はないようであったが、さっさと本題に入った方が良いだろうと思われた。
「で……? 一体、俺に何の用なんだい?」
次元の口から出たその問い。
だが本当は、改まって問うまでもなく、銭形がわざわざこんなところまで彼に会いに来た理由など、よくわかっていたのだ。
銭形の目的など、いつもただ一つなのだから。

「ルパンはどこにいる?」

思わず次元はぷっと吹き出した。
あまりにも想像通りの、それは問いであった。
問うた銭形にしてみればよもや唐突に笑われるとは思ってもいなかったのだろう。予想外の反応に鼻白む。
「何がおかしい」
「いや、あんたも相変わらずだと思ってな。それ以外に話すことないもんかね」
「フン、何とでも云え。……それより、答えるんだ。ルパンは今、どこにいる?」
強い視線を向けてくる銭形から、つと目を逸らし、次元ははぐらかすように、短くなった煙草をわざとじっくりと吸った。
「さあな」
煙とともに軽くそう答えると、吸殻がたまった灰皿で煙草をもみ消す。
そして、唇の片側だけをつりあげて、皮肉に笑ってみせた。
「第一、俺がルパンの居所を知っていたとしても、あんたに教えると思ってるのか?」
そんなことは、銭形とて十二分にわかっているはずだ。それでも敢えて、こんな風に尋ねてくるのには、訳があるからに違いない。
銭形は険しい顔つきで、次元をじろじろと眺めることをやめなかった。
そうすることで、次元からルパンの居所を探り出せるかと信じているかのようですらある。次元にとっては、気障りで仕方がない。わざと浮かべていた笑みを消して、荒っぽくグラスを傾けた。

「確かにお前がルパンを売ることはありえねぇだろうさ。ワシも実のところそんなことは期待しちゃいない。聞き方を変えよう。次元、お前はヤツの居所を知っているのか? それとも知らんのか?」
「……何か勘違いしているようだな。俺はアイツの保護者でも何でもねぇんだぜ」
「お前がルパンの居所を把握できているなら、今日のところはそれでいい。ワシはそれを確かめに来たんだ。で、どうなんだ?」
次元は沈黙するしかなかった。
『ルパンはどこにいる』――この問いに、今の次元は答えられなかった。むしろ、訊きたいのは次元の方であったのだ。


ルパンとはここ数週間、一切の連絡を取っていなかった。今彼がどこにいるのかも知らない。
だがこんなことは、特に珍しいわけではない。
何するわけでもなくずっと行動を共にすることもあれば、互いに干渉しあわず、長期間コンタクトを取らないこともある。
そんな期間がしばらく続いても、ルパンは唐突に次元を呼び出したり、ふいと気まぐれに彼の元に姿を現したりして、強く意図しなくとも気がついたら再び一緒につるむことになっているのだ。
会わない期間に、次元の方からルパンに連絡を取ろうとすることはあまりなかった。
皆無ではないが、なぜか積極的にそうする気になったことはない。今まで、その必要がなかった、という方が正しいのかも知れない。
何か面白い仕事があればすぐに、ルパンから連絡が入るだろうということを、意識するまでもなく「当たり前」のこととして信じていたからである。

今回もまた、そうした「たまたま会わない時期」であるのだと思っていた。ルパンの不在など、気にも留めてはいなかったのだ。
――つい最近、暗黒街に流れてきた噂を聞くまでは。


銭形は真剣な面持ちで見据えてくる。彼の大きな手の中で、グラスの氷がかすかな音を立てた。
目深にかぶった帽子のふちに手を添え、銭形の真っ向からの視線を避けた。
「知らねぇよ。アイツがどこにいようと、関心ないからな」
「嘘をつくな」
すかさず飛んできた言葉に、次元は苦笑いするしかない。
「あんたと一緒にしないでくれ。俺は、ルパンがプライベートで何してるかなんて、知ろうとしたことはない。おおかた、オンナとどこかへしけ込んでるんだろうぜ」
「ルパンは、最近不二子と会ってない」
次元の苦笑はますます深くなる。
「もう不二子の方まで調べ済みってわけかい。だがな、生憎あいつの女はいくらでもいる……ま、せいぜい頑張って、ルパンの居所でも、今付き合ってる女でも、勝手に探し出してくれ」
そう云い捨てて、次元は立ち上がった。数枚の札を取り出してカウンターに置く。
その手を、銭形はいきなりつかんだ。

「離せよ、とっつあん」
次元の目がスッと細められ、凄みを帯びる。
だが、手をつかんだまま、銭形は微塵も動じる気配がない。
「お前も聞いているはずだ。ルパンが今、かなりヤバイ連中に追われ始めたということを」
「……」
「ワシだって、ルパンの行方を見失ったことなど、何度もある。だが、今回は少し気になるんだよ」
次元は沈黙するしかなかった。
手首をつかまれたまま、立ち去るに去れず、だからといってどう答えていいのかわからなかった。
お構いなしに銭形は話し続けた。
「F国に巣食う最大のマフィアが、ルパン暗殺を至上命令としたらしい。その上、陰でF国の大統領まで動いて、ルパンの行方を捜しているって話だ」
「大統領まで?」
驚愕に、思わず次元は問い返した。重々しく銭形はうなずき、それを肯定した。
「もちろん、ヤツに勲章授けたくて探しているワケじゃねぇ。わかるな?」
「……ヘッ、物騒な話だな」
茶化そうとしてみたが、それほどうまくいかなかった。
次元が話を聞く気になったのを見計らったように、銭形は彼の腕を離した。おとなしく再び同じ席に腰を下ろす。
銭形は、低く語りはじめた。

発端は、ルパンが先月、F国マフィアの首領から盗んだ一枚の絵画である。
表向きは大実業家であるが、F国の裏社会に絶大な勢力を誇る、マフィアのボス・マルセル。
彼の所有する絵画コレクションを、ルパンは警戒厳重な自宅からあっさり盗み去った。
それだけでも、マフィアを激怒させるに足る出来事であるが、よりによってその絵画の中の一枚はただの「絵」ではなかったのだ。マルセルの命令の元、マフィアの構成員たちは血眼になってルパンと絵画の行方を追うことになったのだった。

「ただの絵……じゃねぇって、どういうことだ?」
「マルセルの組織を裏切ることを決めた側近の一人が、その絵に重大な秘密を隠してあったのだ」
「重大な秘密たぁ、大げさな」
「ま、ありきたりなネタではあるんだが、本人たちにしてみりゃ、人生を左右する重大事だろうよ」
銭形の口調に少しだけ皮肉なものが滲む。

マルセル一味がルパンを追っているという話は、次元の耳にもすでに届いていた。
この盗みでも、ルパンと行動を共にしており、次元とって他人事ではなかったからだ。
F国から早々に出てしまっていたせいか、まだ彼の元に差し迫った危険はなかったが、用心していたところだった。
そしてその頃から、つかめぬルパンの行方が、少しずつ気になりはじめていたのであった。
ルパンは、絵にそんな厄介なものが隠されていたことを知っていたのだろうか。
知らなかっただろう、というのが次元の印象である。好き好んで厄介ごとに巻き込まれたがる時もルパンにはあるが、今回は敢えて火中の栗を拾ったという様子は、なかった。
実際、ルパンは盗み終えたその夜だけは、マルセルのコレクションを眺めていたが、すぐに関心をなくしたかのように、アジトの絵画保管室に放り込んでしまっていた……。

銭形はウィスキーで喉を湿らせ、再び話を続けた。
「マルセルの組織の実態や、F国大統領とマフィアの癒着の証拠になるマイクロフィルムを、一枚の絵に隠したんだと、その裏切り者は」
「…ったく、一体なんだってそんなところに隠しやがったんだ」
次元は今にも舌打ちせんばかりの勢いである。だが銭形はジロリと横目で睨みつけると、
「馬鹿野郎、元はといえば、お前らが人の絵を盗んだりするからいかんのだろうが」
「おーお、そりゃそうだ。ごもっとも、ごもっとも」
至極真っ当な言葉を、次元はただ肩をすくめてやり過ごすしかなかった。
彼のふざけた受け答えに、銭形は口元をピクつかせたが、この話題について今は深追いしようとはせず、話を元に戻した。

「裏切りが発覚しかかった時、とっさに隠しただけのようだな。そいつをまんまとお前らが盗んじまったってところだ」
「よりによってか。最悪のタイミングだな」
「日ごろの行いが悪いからだ。……まあいい。で、結局裏切り者はすべてを吐かされた。本来ならそんな不始末は組織内だけにとどめてキッチリ始末をつけた かったろうが、話はもう一方の当事者の大統領にも伝わっちまった。もしかしたらマルセルが敢えて伝えたのかもしれんがな。ルパンとその絵を、ヤツらが躍起 になって探してるのは、そういうワケよ」
「大統領までお出ましたぁ、相当な証拠なんだろうな」
「お前ら、本当に知らなかったのか?」
いかにも不審そうな声で、銭形は訊いた。疑われても仕方がないが、本当に知らなかったのだから、次元としては頷くほかはない。納得したわけではなさそうだが、銭形にこれ以上真偽を問いただす気はないらしい。

「ワシは、ルパンがすでに捕まったか、最悪消されたんじゃないかと、心配しとる」
「ああ……」
どう答えればいいものか。
形になっていなかった次元自身の不安を、銭形によってあまりにはっきりと口に出されてしまったことへの反発もある。
ルパンを逮捕し処刑台へ送ることを宿願としている銭形の、「心配」という言葉など滑稽だという皮肉な思いもある。
だが反面、不思議なほど素直に、その言葉を受け入れてもいる。
この男は、ルパンの身を案じているからこそ、今日次元に会いにやって来たのだと。

次元は軽く首を振って、わざと陽気に言い切った。まるで自分自身に言い聞かせているかのように、明確に。
「ルパンに限って、そんなことはないだろうよ。アイツは、殺したってそう簡単にくたばるような男じゃねえ。それはとっつあんだってよく知ってるだろう」
「単なる取り越し苦労ならそれでいい。次元、お前ならすぐにでもヤツと連絡を取れるはずだ。一応……」
「あんたの指図は受けねぇよ」
今度こそ本当に、次元は断固として席を立った。
銭形ももはや引きとめようとはしなかった。

紫煙と、野蛮で猥雑な熱気とで澱んだ店を、次元は素早く出て行った。

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