本音 (前)

夜の沈黙を、女の悲鳴が切り裂いた。
「助けてッ! イヤ! 誰か…」
馴染みの古びた酒場を出てきた次元大介は、内心舌打ちしたい気分だった。
せっかくいい気分で飲んだ帰りだというのに、ぶち壊しになった気がした。
どんな事情があったかは知らないが、こんな物騒なダウンタウンの一角で、しかも深夜をもうだいぶ過ぎた頃合に、女が無防備に歩いている方が悪いのだ。

ここでは、何が起きても不思議ではない。
自分で自分の身を守れぬ人間が立ち入るべき場所ではない。
女の悲鳴は、しかし次第に次元の方へ近付きつつあった。

「誰か助けて!」
絶望的な悲鳴と共に、一人の女が薄汚い路地から転がり出てきた。ちょうど、次元の目の前に、女は倒れこむ。
乱れた金髪を涙に濡れた顔にまとわりつかせ、女は、次元を必死に見上げた。
女の涙を湛えた蒼い目と、目深にかぶった帽子の影から覗く次元の目が、一瞬しっかりと、合った。……合ってしまった。

「お願い、助けて……殺される」
女は、これ以上ないほどに哀れっぽく、すがりつくように次元を仰ぎ見る。
次の瞬間、見るからに凶暴な雰囲気を発した巨体の男が、女を追って飛び出して来た。
男は、次元などに目もくれず、女の髪を荒々しく引っ張り強引に立ち上がらせようとする。
「てめぇ、逃げようったってそうは行かねぇんだよ! 来な!」
安っぽい恫喝の言葉を吐き、嫌がる女をズルズルと引きずる。女の悲鳴は、もう言葉にもならず、ひたすら恐怖にうめいているようだった。
再び、二人が路地に消えていこうとしている姿を、次元は黙って見つめていた。
女が、次元を見ているような気がした。

「チッ」
次元は、今度は本当に舌打ちした。
嫌なところを見てしまった。別に、何の関係もありはしない。
見知らぬ女がどうなろうと、知ったことではない。だが……
女の悲鳴は続いている。ゆっくりと遠くなっていく。哀れみを誘うような、すがりつくようなあの視線が脳裏に蘇る。
このまま帰ってしまったら、嫌な夢でも見そうな気がした。
「馬鹿馬鹿しい」
逡巡を振り払うように、次元は短くなった煙草を吐き捨て、荒っぽく踏み潰す。そして。
彼が向かったのは、自分のねぐらにしている安ホテルではなく、女の悲鳴が消えていった路地の方であった。


(もう殺られちまったんだろうか)
悪臭漂う細い路地の半ばで、次元は二人の姿を見失った。街灯の明かりも満足になく、曲がりくねった細い道の続くこの場所では、なかなか先が見通せない。
(それとも、どこか部屋にでも連れ込まれたか)
路地の両脇には、とても人が住んでいるとは思えぬほどに荒れたアパートが数多く立ち並んでいる。この中に入ってしまったのなら、もう次元に探し出すことは出来ない。
それならそれで、仕方のないことだ。
次元が、そう考えた瞬間。
背後に危険な気配を感じた。振り返りながら次元は、無意識に銃を構える。

が、それはほんの僅か遅かった。相手はすでに、次元に向けて引き金を引いていたのだ。

薄れゆく次元の意識に映ったものは、女を追いかけていた巨体の男と、先ほどの惨めな顔つきからは想像も出来ぬほどに冷たい表情をした、金髪の女。そして彼女が自分に向けて引き金を引いた銃の、無慈悲な輝きだった。




どうしようもない不快な感覚が全身を覆っている。この感覚は、麻酔から覚める時のもののようだった。
それ以上に、手首のつれるような痛みに、次元は思わず苦痛の息を漏らした。
そうしてから、ハッと我に返る。
(痛てぇ。……ってことは、生きているってわけか)
意識を取り戻した彼は、周囲を見回そうとしたが、体がまったく自由にならないことに今更ながらに気付いた。

「ちょっと! やたらと動かないで頂戴。痛いじゃないの」
聞き覚えのある甘い声。どんなにとげとげしい話し方をしても、艶のある色気がにじみ出るその声。峰不二子である。
「不二子、お前……」
「やっとお目覚め?次元さん。ずいぶん呑気ね」
不二子の姿を、次元自身の目で確認することは出来なかった。
彼らは、背中合わせでしっかりと、イヤになるほどしっかりと、ロープで縛り上げられていたのである。

固く結ばれた次元自身の手首を、さらに不二子の手首と結び合わされ、わずかな緩みもないロープはさらに二人の体も縛り上げている。勿論、足首も例外ではない。
ほんの少しでも身じろぎしても、お互いに苦痛が走る。どういう縛り方をしているものか、巧妙で徹底した束縛の仕方であった。
「いつの間に。チクショウッ!」
「イヤだ! 暴れないでよ。モウッ痛いったら!」
「くっそう」
よりによって峰不二子とこんな格好で捕まってしまうとは。次元は、情けなさと怒りで気のきいた悪態すら思いつかない有様だった。

二人が縛り上げられているその部屋は、窓が三方に広くとってあるわりには薄暗く、ガランとした殺風景な部屋だった。窓のない壁面には、古いドアが一つ。
部屋の真ん中に、次元と不二子は無造作に放り出されているのだった。
その暗さから、まだ夜明けを迎えていないことが分かる。ということは、あの女に撃たれてからそれほど長い時間がたったわけではなさそうだ。
「それにしても、一体何だって俺とお前をとっ捕まえたりしやがったんだ」
そう言った途端、次元にはふと心当たりが浮かんできた。が、不二子は背後で疲れたような声で答える。
「知らないわよ。あーあ、最悪。何で次元とこんなにピッタリくっつかっていなくちゃならないの」
「こっちの台詞だ!」

「無駄口はお止め」
がたついたドアから、金髪の女と、巨体の男、そしてスラッとしたいかにも二枚目然とした若い男が現れた。三人の手には、しっかりと銃が握られ、次元と不二子に照準を合わせている。
次元は、女の方にかろうじて顔を向けると、ニヤリと笑った。
「よう、お嬢サン。アカデミー賞ものの名演技だったぜ」
「……」
次元に助けを求めるふりをしていた時の様子はどこにもなく、女は完全な無表情であった。いかにも意志の強そうな、冷徹な眼差しを次元に向けるばかりである。
背後で不二子が呟いた。
「アナタがどうして捕まったのか、何となく見当がついたわ。いつもながら、お優しいこと。敵さんも随分次元の性格をわかっているようね」
「うるせぇ。俺だってお前がどうして捕まったのか、目に浮かぶようだぜ。どうせあの軟弱そうな男にお宝か結婚か、美味しい話を持ちかけられたんだろ」
「失礼ね!」
不二子はわざと大きく身じろぎして次元の手首を締め上げた。次元は必死で痛みを堪える。

「大人しくしなさい! お前たち、自分たちの立場をわかっているの? 生かすも殺すも、私たち次第なんだよ」
女が数歩近付き、次元と不二子の頭上に銃を突きつける。
「イキがるのはよしな。どうせお前たちの目的は、俺たちの命なんかじゃねぇ」
次元は軽く女をいなした。
「ルパンに取引でも申し込もうってハラだろ? 違うか?」
「……」
「さしずめ、この間俺たちが戴いたカジノの売上金を返せ、とかな。お前らのボスも薄々察しがつくぜ」
女は次元の頬を殴りつけた。が、次元は怯む様子もなく、唇から出た血を舐め、女の前に吐き出した。
わずかに、女は顔をしかめた。
「……。とにかく余計なお喋りは命を縮めるよ。しばらく大人しくしていなさい。その方が身のためってものよ。下には、何十人も物騒な連中が控えてる。ここから抜け出そうとしても、無駄。いいわね」
女は無表情にそう言い捨てると、さっと身を翻してドアから出て行った。二枚目風の男も続く。どうやらが巨体の男が見張り役となるらしい。
「悪いね、ミス・不二子」
若い男は気障な投げキスの仕草をして見せ、笑いながら出て行った。今不二子がどんな顔をしているのか、見られないのが残念だ、と次元は皮肉っぽく考えた。
そして、こんな風に無様に捕まっているのをルパンが知ったら、アイツはどんなに馬鹿にするだろうかと想像して、ほんの少しウンザリするのだった。

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