化身 (中)

女の名は、香乃と言った。
彼女がどうして一緒に修行をすることになったのか、その辺りの事情については五右エ門の記憶にない。
が、いずれにしても、五右エ門の当時の師匠と何らかの縁がある娘だったのだろう。
「娘」と言ったのは、現在の五右エ門の年齢で過去を思い出した時の表現であり、当時の少年五右エ門の目には、彼女は自分よりずっと年上の、大人の女性として映っていた。

彼女を見て、生まれて初めて「抜けるような白い肌」という言葉は、ああいう肌を指すのだろうと、まざまざと思った。
白く透明感のある、艶やかな肌。連日の外での修行にもかかわらず、女の肌は不思議と常に白かった。
激しく動いた後だけ、ほんのわずかに、頬を淡い紅に染める。
そんな時の彼女は、涼やかな目を伏せ、頬に軽く手を当てる癖があった。ふいに、艶めかしい気配が漂う。
真実、美しい女性だった。
彼女のそんな様子を目にするたびに、見てはならないものを見てしまったときのような、背徳的な気分を五右エ門は味わった。

だが、冷静に昔の己を振り返ってみても、彼女に惚れてはいなかった、と言い切れる。
勿論、気になる存在ではあった。それは共に修行をする兄弟子達誰もが同じであったろう。突然美しいくのいちが修行に入り込んできて、気にならぬ男は居るまい。まだ少年と呼び得る年齢だったとはいえ、五右エ門も例外ではなかった。

修行中であるというのに、彼女の動きを目で追ってしまう。いけないと自覚すればするほど、視線は己の意思を無視して彷徨い出る。
彼女はいつも清々しいばかりに修行に励んでいた。しなやかな体が、生き生きと躍動する。
幾度も、美しいと感じた。
しかし、彼女の姿を見かけるたびに、妖しい戦慄が走り抜ける。それが五右エ門を不安にさせた。
少年の頃から、武術にずば抜けた素質を示し、年齢に似合わぬ落ち着きと剛毅さをすでに身に付けていた五右エ門。
そんな彼が、「不安」を覚えるなど、ついぞないことであった。

香乃は、表面的には穏やかで、もの静かな雰囲気ではあったが、決して本心を明かさぬひとであった。周囲へ当たりが非常にやわらかいので、彼女が本心を隠していると気づかぬ者も多い。
ごくまれにだが、頑ななところがちらりと覗くことがある。わずかな「陰」の部分は、思いのほか暗い。
外からでは窺い知れぬ部分は、とてつもなく意外な、彼女のもう1つの顔を隠しているのではなかろうか。
言葉にすればそんな思い。
それが、五右エ門に不安を抱かせていたのかもしれない。
純粋に、綺麗な女性だと感じてはいても、無条件に好意を持つには、女はあまりに底知れず、妖しく美しすぎた。


女は、やがて五右エ門の兄弟子の1人と恋仲になった。
2人はしばらくの間、その事実をひた隠しにしていたが、色恋沙汰は不思議とどこかから周囲に知れてしまうものである。
決して本人達はその事実を認めようとはしなかったが、それはこれからもこの小さな集団の中で修行を続けていくための、方便でしかない。
知らぬは師匠ばかりという具合で、2人の仲は暗黙の了解事項となった。
女の恋仲の相手……龍世の誠実な、好ましい人柄が、2人の恋を周囲に黙認させていた。

五右エ門も、龍世とは打ち解けており、親しく言葉を交わす唯一ともいえる兄弟子であった。
というのも、生来の孤独癖と、強烈な自負心……これらのために五右エ門は、他の兄弟弟子たちにはあまり親しむことはなかった。
にもかかわらず、不思議と龍世とはうまが合った。
龍世が何もかも五右エ門よりすぐれていたからでは、ない。
寧ろ、歳は龍世の方がずっと上であるにもかかわらず、忍びの技や武術では、すでに五右エ門は彼を超えようとしていた。
常の五右エ門であるならば、腕の劣るヤツとして、顧みなかったに違いない。
また、仮に腕が互角、あるいは上であるならば、尊敬しつつも心は許さなかったであろう。
非常に変わり者や、傲慢ともいえる自信に満ち溢れた者が多いこの世界では、そうでなくては生き抜けないという現実もあった。

そうした世界に生きる者として、龍世という男は何かが決定的に欠けていた。
だが、何かが欠けていたが故に、龍世は周囲の強烈な自我の持ち主たちと衝突することはなく、誰からも一定の信頼を寄せられていたのだった。
真面目で一途な、気持ちのいい男であった。

龍世は、しかし次第に変わりつつあった。
女……香乃と付き合いだしてから、徐々にではあるが、確実に変わっていった。
修行にまったく身が入っていない。誠実で生真面目な彼は、修行に費やす時間だけは誰よりも長いのだが、集中力を欠いていたので、まるで無意味であった。
常に落ち着かず、焦り、苛立ちを内に秘めている。そんな己を周囲に気取られまいと努めてはいるものの、その鬱屈がさらに彼を苛立たせる。
おどおどと周りの人間達に接したかと思えば、突如彼らしからぬ激しい、しかしまるで見当違いな怒りをぶつけてきたりする。
そんな自分を猛烈に羞じ、悔やむもののやはり焦りを抑えられぬ。
龍世は、何かにとりつかれたかのように、日々憔悴していった。



龍世の様子がおかしくなりはじめてから、数ヶ月たった頃であった。
ある春の日、五右エ門は龍世とふたり、川辺を歩く機会があった。きっかけは忘れてしまった。
だが、その日の兄弟子の言葉は、鮮明に五右エ門の胸に焼き付いている。
龍世は、突然五右エ門に、香乃と付き合っていることを告白した。とうの昔にそんなことは知っていたが、五右エ門は特に言葉をさしはさまず「そう」と言ったきりだった。

龍世は、五右エ門に聞いて欲しいというより、誰かに話すという形をとりつつ、単に自分自身の内面と向かい合っているだけのようにも見受けられた。
年も若く、話をしたところで恋の相談役など務まりそうもない五右エ門相手に打ち明けたこと自体、それを物語っているようにも見えた。
また、五右エ門は人の噂にあまり関心を持つ方ではないし、誰よりも口が堅いので、話し相手に選ばれただけなのかも知れぬ。

「香乃は、美しいだろう。なあ、そう思わぬか、五右エ門」
「うん」
「あんないい女、他にはいない」
「そう……かな?」
「そうだとも!」
龍世は殊更語気を強めて断言した。その目は、恋に狂ったもののみが宿す妄執の炎が眩めいていた。
その底光りする暗い目に、違和感を感じつつ五右エ門は、大人しく同意してやることにした。
以前の、人当たりがよく、穏やかに五右エ門の心を開かせた兄弟子の姿は、すでにそこになかった。
龍世は、ひとり語り続けた。
香乃が、いかに素晴らしい女であるか……心優しく、見目麗しく、忍びの技にも優れているかを、飽きることなく語る。
だが、その様子に、幸せそうな気配は感じられぬ。
互いに思い合っているような恋をしている者は、もっと幸せそうな様子をするのではないのだろうか。五右エ門は、訝しく思った。

「素晴らしい女だ。この世に、ただひとりの女……。そんな女が、俺に、この俺に微笑みかけ、俺の気持ちを受け入れてくれた」
「……」
「だが、なぜなんだ? 何故、俺なのだ? あれの選んだ男は、本当にこの俺なのだろうか……? 俺だけなのだろうか?」
いつのまにか、龍世の手はぶるぶると小刻みに震えていた。憑かれたように、目だけがギラギラと奇妙に光っている。
やつれた頬が痛々しい。
「香乃……は、奴にもわりと優しく微笑みかけているようには、思えぬか?」
そういって龍世はひとりの仲間の名前を挙げた。
さらに、またひとり、またひとりと名前を挙げていく。

ここにいたって、ようやく五右エ門は、龍世が女の身持ちの固さを疑っていることに気づいた。
五右エ門のような完全な第三者から見れば、龍世が疑ってかかっていることなど単なる妄想にしか思えぬ。だが、龍世の目から見れば、香乃と朝の挨拶を微笑んで交しただけで、その男は香乃と何かがあることになってしまう。
しかも彼の頭の中では、非常に「根拠のある」疑惑に感じられているらしい。

五右エ門が、あと数年年齢を重ねていたならば、少しは実のあるなぐさめの言葉をかけてやることもできただろう。
兄弟子の妄想を和らげてやったり、笑い飛ばしたりもできただろう。
だが、その時の五右エ門は、正直途方にくれていた。あまりに狂おしい目をする龍世に、例え自分が何を言っても通じないであろうと、無力感に囚われてもいた。
もしかしたら、無責任な慰めでもいい、「そんなことないよ」という一言を切望していたかも知れぬ兄弟子に、幼い五右エ門は何一つ言葉をかけてやることが出来ぬまま俯くしかなかった。

正直なところ、あの女には人を不安にさせるような、どこか窺い知ることの出来ぬ……誰にも決して底を覗くことの出来ぬ深淵が宿っていると、五右エ門には感 じられていた。彼女の身持ちについては龍世の考えすぎであろうとは思っていたものの、その場しのぎの安易な慰めは、五右エ門の性分にはない。

一方、龍世に決定的に欠けていたものは、自信……。
至上の恋人を手に入れた喜びを味わう暇もなく、今彼は、それが失われるのではないか、そもそも手に入れたと思っていたこと自体がまやかしなのではないかと、ひとり恐慌に陥っている。
周囲には、自分以上の腕と技を持つ男が大勢いる。会話が上手く楽しい男がいる。端正な美貌の男もいる。
にもかかわらず、女は龍世を選んだ。女は、誰にでも優しいように見える……。
女の心を、そして自分自身を信じられぬ哀れな男は、募る恋情と不安の間で、もとよりか細い神経を日々すり減らしていたのだった。

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