切り札 (前)

灯りを落とした部屋の中に、ふと柔らかな気配が漂った。
軽く目を閉じたままソファに身をゆだねていたルパンであったが、その気配に思わず顔を上げた。
現れた人物を目で捕らえるまでもなく、ゆっくりとルパンの面に笑みが広がる。

「珍しいわね、考え事?」
部屋の中に入ってきた気配の主――峰不二子は、そう問いかけながら、猫のような身のこなしで、ルパンの隣に腰を下ろした。
「ぃよう、不二子ちゃんじゃないの。いらっしゃ〜い」
一人きりの時とはまるで違う、不思議に明るい表情で、ルパンは彼女を迎えた。
目にも止まらぬ素早さで不二子の肩に手を伸ばし、キスを求めて顔を近づけてくる。あまりにも手馴れた行動である。
不二子とても慣れっこのようで、迫るルパンの顔を軽く押し戻す。が、いつものように邪険に振り払うことなく、そのまま手をそっと彼の頬に滑らせた。
大きな、底知れぬ瞳で静かに見上げる。
それを受け止めたルパンはニヤリと笑って、彼女の手を自分の頬に当てたまま握り締めた。

「相変わらずつれないねぇ。久しぶりに会ったんだから、再会のキスくらいさせてくれたっていいんじゃないの?」
「あら、冷たいのはどっちかしら? 私が先に日本へ帰っているのを知っていたクセに、会いに来てもくれなかかったじゃないの」
不二子の逆襲に、ルパンはわずかに気まずそうな表情を見せた。
「いやぁ、悪りぃ、悪りぃ。いろいろとヤボ用が多くてさ。もっちろん一瞬たりとも不二子ちゃんを忘れたことなんか、なかったんだぜ? 明日あたり、会いに行こうと思ってたところなんだけっども」
「言い訳はたくさんよ」

彼の手からスルリと自分の手を抜き取ると、不二子は身軽に立ち上がった。
背後には、窓から差し込む月光が溢れ、その陰となった彼女の表情を容易に窺わせなくする。
部屋の中は、まるで深海のように静かで、蒼い。

「確かに今、貴方は忙しいんでしょうね。……何と言っても、アルセーヌ・ルパンの遺品がもうすぐここ日本で公開されることになるんだから」
そう言うと、不二子は意味ありげに小首を傾げた。
だがルパンは、ごくあっさりと頷く。
「なぁんだ。知っているんなら話は早いや。……そ、俺は今、じいさまの遺品を取り返さなくっちゃいけなくってさ、ちょいとばかし忙しいわけ。でも仕事なんかすーぐに片付けるからサ。終ったら早速おデートなんていかが?」
再び手を伸ばし、ルパンは不二子の手を優しく握り締めた。

滑らかなその白い手をルパンにゆだねつつ、囁く。
「そうねぇ、その仕事に私も一枚かませてくれたら、考えてもいいけど?」
「……」
ほんの一瞬だけではあったが、重い沈黙が落ちる。他の人間では気付くことの出来ないほどのわずかな沈黙。
その間に、ルパンがいつもの彼に似ず、慎重に言葉を選んでいるように、不二子には感じられた。

「今回のヤマは、わざわざ手伝ってもらうほどのモンじゃないぜ? それに、盗むのは俺のジイサマの古びたコートやシルクハットだけ。不二子の欲しがるようなものなんかないんだよなぁ」
だがルパンの受け答えには、あっさりと、しかも何一つ変わったところはなど伺えない。つい今しがた不二子が感じた違和感など、単なる気のせいだとしか思えないほどに。
真意を見抜こうと、じっと彼の顔を正面から覗き込む。
だが、そこには、不二子の手を大事そうに握りながら、何を想像しているものか一人でニヤけている……そんな気の抜けたルパンがいるばかりである。

「貴方って、本当に食えない男ねぇ」
思わず不二子は本音を漏らす。その言葉をどう取ったのか、ルパンはいっそうニヤニヤと笑うだけだ。
「と〜んでもない! 俺なんかもう、今が食い頃よ、食い頃。不二子ちゃん、どぉ? おひとつ」
「ンもぅ。ふざけてばかりいるのね。もういいわ、ルパンなんて。……せっかく手伝ってあげようと思ったのに」
つんと顔を逸らし、わざと拗ねたような声を出す。
そんな不二子を、ルパンは意味ありげに笑いつつ見上げた。
「めっずらしいんでないの、不二子ちゃんがそんなに優しいこと云ってくれちゃうのも」
「あら、そうかしら? 私はいつも優しいのよ、本当は」
にっこりと微笑みむ不二子に、ルパンはいかにも何か云いたげな皮肉そうな表情を見せたが、それも一瞬のことであった。
「気持ちだけ、有り難〜く受け取っとくよ」
「そう」

不二子はそれ以上深追いすることはなかった。
途端にルパンへの興味をなくしたかのように、自身の手を引き戻した。そして、この部屋に入って来た時と同じく、音も立てずに身軽にドアへと向かう。
「アレ、不二子ぉ、もう帰っちゃうの? ゆ〜っくりしていけばいいのに。なんなら一晩中オレとゆ〜〜っくりと…」
ふざけたルパンの声が不二子の後を追う。
しかし、彼女はルパンを振り向きもせずに、おざなりに軽く手をふると、さっさと部屋を出て行った。

唐突で、あまりに短い不二子の訪問であった。
それをあっけにとられて見送ったルパンは、ひとりおどけて肩をすくめ、しばらくは不二子が出て行ったドアの方へと視線を向けていたが、やがて再び軽く目を閉じソファに深々と身をうずめた。

後には、月光に彩られた沈黙と、不二子のコロンのかすかな香りだけが残された。


◆ ◆ ◆



「失礼します、総監殿」
勢いよくノックをした後、内側からの返事もまたずに、銭形警部は警視総監室へと入っていった。
気心の知れた前任の警視総監の時からの習慣であり、銭形には悪気などあろうはずもない。
だが、総監に着任してまだそれほど間のない日高警視総監には、銭形のこうした態度が、ひどく無礼でがさつなものに感じられるらしい。
ICPOに派遣され、日頃は世界各国を飛び回っているため、この日高とはまだ数回しか直接会った事がないのだが、すでに煙たがられているようだと、銭形は感じ取っていた。
だからといって、彼はまるきり己の態度を改めようともしないのであるが。

「ああ、銭形君」
その日の日高は、しかし、銭形に対していつものように軽く眉をひそめる事もなく、淡々と彼を迎え入れた。
確かに、ドアの開け閉めなどに目くじらを立てている場合ではないだろう。そう銭形は内心ひとりごちた。
――何しろ、あのルパン三世がこの日本に舞い戻り、盗みを働こうとしているのだから。
ルパンの起こす事件ともなれば、単なる窃盗事件とはいえ、間違いなく全世界から一斉に注目を浴びる。最高責任者である日高が内心穏やかでなくとも当然であると、銭形は見た。

「総監殿。博物館側との打ち合わせも終了しました。後は、ルパンめがやって来るのを、待つだけであります」
「それは結構。だがね、銭形君、ルパン三世は本当に盗みにやって来るのかね? 特に予告状も届いてないという話だが」
日高は銀縁の眼鏡を神経質そうに押し上げると、銭形にそう尋ねた。
答える銭形は、いたって自信満々の様子である。
「勿論、ヤツは必ずやって来ます!」
「……君がルパン逮捕に、ある程度の実績があるのは認めるがね」
いかにもエリート然とした態度で、日高は「ある程度の」という部分にだけやけに強調して云う。銭形の方は、そんな些細な嫌味如きは何食わぬ顔をして受け流した。
だが、説明の前に「総監はご存じないかもしれませんが」と軽い逆襲じみた一言をつけるのを忘れない。そして、おもむろに話し始めた。

「ルパン三世という男は、その祖父アルセーヌ・ルパンの遺品を、公にさらされることを好まんのです。今までにも日本で、似たようなフェアが開催されたこと がありましてな、その際ルパン一世の遺品が日本にやって来たのですが、ヤツァはしっかりと姿を現しました。また、かつて一世の所有していた宝や彼の描いた 絵画など、そんなモノが世に出る時には、ヤツめがそれを見逃すことは、一度としてなかったのです」
「ううむ」
「今回も同様です。ルパン一世の着用していたシルクハットや片眼鏡にマント、そしてステッキ……。これらが展示される『19世紀のパリ展』に、ヤツが来な いはずはありません! 予告状もじきに届くでしょう。アイツはご先祖がらみになると、いつも以上にキザに決めたがるヤツでして」
銭形は、フンと鼻を鳴らした。そして今までの大声とはうって変わり、突然声を潜める。
「それに今回は特に、ルパンめはそれらの遺品を人目にさらしたくないでしょうからな」
そんな意味ありげな銭形の言い方に、興味を引かれたかのように、日高は軽く眉根を寄せた。
「ん? どういうことだね、銭形君」

銭形は、懐から数枚の写真を取り出し、日高の前の広い机の上に置いた。その写真には、今回日本にやってくるルパン一世の遺品が写っていた。
「これらが、今回日本にやって来るルパン一世の遺品であります。その中のマントをよく見てください。ここ、この部分です。染みが見えるでしょう?」
銭形から写真を受け取り、日高はじっとそれに視線を注いだ。確かに、黒ずんだ染みが見える。
日高総監がそれを確認したと見るや、銭形は低い声で語り始めた。

「これは、ルパン一世が若い頃愛した女の血だそうでしてね。何でも、とある事件の時に、女を守りきれずに目の前で死なせてしまったとかで。その時に一世が 着ていた、曰く付きのマントだという話です。それをルパン一世の腹心の部下が保存していたらしく、最近になってその子孫が蔵から発見したとかなんとか。ま あ、どこまでが本当なのかは知りませんがな。……いずれにしても、ルパンの爺様にとってはあまり自慢にならん時に着ていたマントらしいのです」
「なるほど。だから、ルパン三世は、このマントをみすみす見世物にすることは、まずないはずだ、というわけか」
「仰るとおりであります」
日高は納得したように、軽く数回頷いた。

「それに、これらには多分、もっと……」
銭形は低く呟いた。考え事をしているうちに、思わず口に出てしまった、という様子である。銭形はハッと口をつぐんだ。
日高は眼鏡の奥の細い目を光らせる。
「何だね、銭形君?」
「いや、これに関しては、もっときちんと調べ、確証を得てから、総監殿にご報告させていただきます」
それ以上の日高の追求を、断固として拒むかのような口調で、銭形はきっぱりと言い切った。
一瞬渋い顔をした日高だったが、頑固そうに口をへの字に閉ざした銭形に、それ以上先を促そうとはしなかった。何を考えているのかを問いただしたところで、口を割らせることは出来ないと判断したのだろう。

事務的な態度で、日高は話を別な方向へと向ける。
「それで、ルパン一世の遺品の、博物館への搬入時間は決まったのかね」
「はい。空港到着は3日後の午後8時。博物館への搬入は午後11時を予定しています」
日高が満足げに頷いたその時であった。

どこからともなく、銭形たちの上に声が降ってくる。銭形にとっては、あまりにも耳に馴染んだ声である。
「ンフフフ、とっつあん、お久しぶりぃ」
「ルパン!!」
叫ぶと同時に、銭形は猛然と周囲を見回す。日高もうろたえながら立ち上がった。
「とっつあんのことなら、もうわかってると思うがよ、一応予告しておくぜ」
その声はいかにも不敵に、あざ笑うかのように響いた。
「どこだッ、ルパン! 出て来い!」

「銭形君、あ、あれを……!」
その叫び声に振り返ると、日高の指す窓のところに、一枚のカードが貼り付いていた。
先ほどまで、銭形は日高と向き合って話をしており、常に日高の後方にある窓を見つめていたわけだが、こんなものは影も形も見当たらなかったはずだ。という ことは銭形が、ルパンの声につられてあちこちを見回し、窓から視線を離していたわずかな隙に貼られたことになる。
「おのれ、いつの間に!」
ここが地上数十メートルに位置する部屋であることを考えると、瞬時にカードを張るなど普通なら考えにくいことであるが、相手はあのルパンなのである。
銭形は勢いよく窓を開け、外側から貼られているそのカードを引っ剥がした。
それは、よりにもよって警視総監室の窓に、日本の警察を嘲笑うかの如く、大胆不敵に叩きつけられたルパンからの予告状であった。

「アルセーヌ・ルパンの遺品は、すべてこの俺様が引き取らせて戴きますヨ。悪しからず。ルパン三世」

「ルパンめ!」
銭形が怒りに燃えて窓の外へと身を乗り出すと、夕闇の空に、人影が浮かんでいるのが見える。その影は、今まさに遠くへ飛び去ろうとしている。どうやら背中に、翼状のものを背負っているらしく、それで空を飛んでいるようだ。
ルパンに違いない。
銭形は、無我夢中で拳銃を取り出した。

「やめろ、やめたまえ銭形君! ここは日本だ! しかも警視庁内だぞ!」
日高は銭形の発砲を止めさせんと、彼を羽交い絞めにした。
ルパンしか見えていなかった銭形は、反射的にそれを振り払おうともがいたが、力強い腕に阻まれた。
ギクリとしたように身を振るわせる。銭形は背後から彼を押さえ込む日高の顔を振り返ると、不意に冷静さを取り戻し、拳銃を握った手を力なく下ろした。

ルパンらしき人影は、黄昏色に染まった空の中へと、溶け入るように消えて行った。

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