孤高の剣士 (前)

真夏の日差しが激しく男を照らしつけていた。
豊かに茂る周囲の木々の影も短い。真上に輝く太陽をさえぎるには、あまり役に立っていない。
相当に、暑い日であった。周りの緑ですら、あまりの暑さと最近の雨不足に、いささがげんなりとしおれ気味である。元気なのは、ただ蝉だけと見える。
が、男は一向気にする様子もなく、ただひたすら足元だけを見て歩き続ける。どこか肉食獣を思わせるしなやかさで油断のない立ち振る舞いの男は、静かに歩き続けている。額には、汗一つ浮かんではおらぬ。

着流しに袴。まだ若く、涼しげな顔立ち。だが底知れぬ殺気を秘めたまなざし。
男……石川五右エ門は、ふいに顔を上げて、近づいてきた目的地である古びた寺を見上げた。
ふもとの小さな過疎の村から、細々と続く道を辿りようやく見えてきた寺。竜祥寺であった。立派な名前こそついているものの、遠くから見ただけでもかなり荒 れているのがありありとわかる。誰もそんなご大層な名前が、あの寺についていることなど忘れているであろう、さびれた寺だ。
(こんなところに隠れているのか……)
そっと五右エ門はひとりごちて、手にもった仕込杖を握りなおし再び静かに歩き始めた。

境内に入ってみると、五右エ門は意外な感を覚えた。
建物こそどうにもならないくらい荒れているものの、前庭にはきちんと水がうってあり、ゴミ一つ落ちていなかった。門にはつい最近修理したらしき跡が見える。ちっぽけな本堂の屋根でも直すつもりか、はしごが立てかけられている。
遠くから見たときは完全な廃寺だったが、誰かが手を入れ始めているようだ。
(あやつ……が?)
五右エ門がそう考えた時だった。

「お客さんかね」
「!」
背後からそう声をかけられ、五右エ門は思わず激しく振り向いた。
そこには、小柄でかなり痩せた老人が、人のよさそうな笑顔で立っていた。どこか鶴を思わせる老人だった。

「珍しいこともあるものだ……何の御用かな?」
五右エ門が内心感じている動揺など、まるで気づかぬ様子で、老人は微笑んでいる。
(何も……気配を感じなかった。これだけ近いところから声をかけられるまで)
初めて、五右エ門の額に汗が浮かんだ。
五右エ門は、ほんのわずかな時間で、老人を観察し、発する気配をよもうと試みた。が、老人は悠然と、やや背を丸めたごく普通の老人の姿で立っているばかりだった。背丈は五右エ門の肩くらいまでしかなく、作務衣を着て無造作に立ち尽くしている。
張りつめた、独特の気配はまるで感じられない。
殺し屋の、気配が。
(こやつが塚原道厳ではないのか…?)
五右エ門の顔に、ほんのわずかだが逡巡の影がよぎる。

「ふぉ、、ふぉ、ふぉ……」
不意に、空気の抜けたような笑い声が老人の口から漏れた。
「何を迷っておられる?斬るなら早く斬るが良かろう」
「……!」
咄嗟に五右エ門は仕込杖を構えなおした。
勿論そこには、自分の分身ともいうべき斬鉄剣が仕込まれている。
ゆっくりと、斬鉄剣を持つ手に力を込め、いつでも抜けるよう全身を緊張させた。
その間も、老人はいたって平然と立ちながら、五右エ門を笑みまじりに見つめているばかりだ。相変わらず殺気は、ない。
(こやつは、オレが自分の命を狙いにやって来た刺客だと知っていた。間違いなく、こやつが「修羅」とあだ名された殺し屋、塚原道厳なのだ)
五右エ門はじりじりと老人との間合いを計った。
相変わらず、塚原老人は動かぬ。
面白そうに五右エ門の動きを見つめている。
蝉の声だけが、響く。

突然、老人が五右エ門に対してくるりと背を向けた。
「……!」
これだけ五右エ門が神経を張りつめ、老人の動きをよもうと試みていたにもかかわらず、塚原老が背を向けることをまったく察知できなかったのだ。
またしても不意をつかれ、五右エ門はかっとなって叫んだ
「待て!動くと斬るぞ!」
「だから斬れと言ったであろうに。まだ斬らんようだから、わしは部屋へ入るぞ。ここは暑くてかなわん」
老人は平然と、本堂の裏にあるボロボロの庵の方へと歩いていってしまった。
「待て!」
「おぬしも来たければ来い。何も炎天下でにらみ合う必要もなかろう」
「くっ……」

不思議なことに、老人の背中には隙がなかった。
いや、隙がないというのとも少し違うような気がした。
老人は、一切身構えたりしていない。何一つ、五右エ門の殺気に対して抵抗する気配も、逃げる気配もない。
斬るつもりなら、いつでも斬れるはずだった。

だが、何かが五右エ門を躊躇わせた。今、背後から斬りかかったらどうなるのか、まったく五右エ門には予想できなかった。
老人の様子は、それだけ得体が知れないように思えた。
老人は、彼の殺気など、はなからないもののように、静かに穏やかに、ただ在るだけだ。
何の恐れもなく、ただ、在る。
不気味な思いで、五右エ門はそんな老人の後について歩いた。
どこかに罠があるに違いない。庭の物陰か、庵の奥か……。全身を再び緊張させつつ、五右エ門は歩いた。

「ふぉ、ふぉ、ふぉ……」
後ろを向いたまま、またしてもふいに老人は笑った。五右エ門のそんな緊張を、振り向きもしないまま感じ取り、面白がっているようだった。
五右エ門は不愉快そうに眉間に皺をよせる。普通の人間だったら震え上がるほど恐ろしい視線が、刺すように老人の小さな背中を睨みつけた。



古びた小さな庵に、二人は対座していた。
どうしてこんなことになってしまったのか。五右エ門は激しく苛立ちながらも、老人を今すぐ叩き斬るつもりにはなれなかった。
自分の殺気に気づいているはずなのに、何一つ反応を示さぬ老人。殺気に気づかぬような普通の人間なら、すぐにでも殺れる。
また、殺気に気づくような人間であれば、何らかの反応が、気配が返ってくるものなのだ。そうした人間は多少手強かろうと、気を読み、隙を突いて五右エ門の技で切り捨てられよう。塚原のような名高い殺し屋であれば、そういう反応をしてしかるべきなのだ。

だが、この得体の知れない老人は、五右エ門の殺気を一方的に音もなく吸い込むかのようだった。静かな水面に向けて、あるいは冷たい石ころに向けて殺気を放ってしまったような感じが、五右エ門にはした。
殺気は、行き場をなくして途方にくれる……。
相変わらず、蝉だけがかまびすしい。

ついに、五右エ門が口を開いた。
「塚原道厳だな?」
「何を今更。そうだと知っているから斬ろうとしたのであろうに」
塚原老はかすかに笑った。
そう。何も確かめるまでもなかったのだ。自分の狙うべき相手、殺し屋塚原道厳は間違いなくS県の竜祥寺にいると聞いて来たのだから。五右エ門は己の言葉を悔いた。
だが、どうしても確かめてみずにはいられなかったのだ。この殺し屋らしからぬ、不思議な雰囲気を放つ男が本当に「修羅」本人であるのかを。

五右エ門は、また低く囁くように訊ねた。
「なぜ……オレがそなたを斬ろうとしていると知った?」
「そろそろまた百地の刺客が来る頃だからさ」
また?
五右エ門は訝しげに塚原老の顔を睨みつけつつ考えていた。
(オレ以前にも百地先生はこやつに刺客を放ち、しかも失敗しているということか)
さすがに「修羅」の異名をとった殺し屋。老いているようでも油断はならぬのだ、五右エ門は再び体を緊張させる。
得体の知れない気配の男。

だが、五右エ門は決して怯えているわけではなかった。どれほど腕の立つ男であろうと、負ける気はまるでしない。自分の腕と斬鉄剣を信じている。
実際、五右エ門はこの若さですでに幾人もの腕の立つ人間を葬り去り、殺し屋界に名を轟かしているのだ。
そんな五右エ門が敵である人間を前にまだ斬りかからないのは、この奇妙な老殺し屋に彼らしからぬ好奇心を抱いてしまっていたからなのかもしれなかった。

塚原老がのんびりとした口調で訊いた。
「どうしたね、石川五右エ門?」
「オレの名前を……」
「知っておるさ。有名だからの。こんな山奥に引っ込んでいても聞こえてくくるくらいに。お前さん、最近随分派手に暴れているらしいの……それが何でも切り裂くという、あの斬鉄剣であろうが」
興味深げに老人は斬鉄剣に目をやった。
すべてを知られている。もはや考えることはないはずだ。
これから殺す人間に興味を持ったところで何になろう。
そう己に言いきかせ、五右エ門はついに立ち上がる。スラリと斬鉄剣を抜き放った。
剣の切っ先が青白く燃えた。

「なぜ逃げぬ?」
五右エ門が低く、囁いた。塚原老は笑顔のまま答えた。
「別に。今更惜しむ命でもあるまい」
「抵抗せず死ぬ気か。だが、そなたはオレ以前に百地先生から放たれた刺客を殺っているのだろう、違うか?」
「違わんさ。だが今はもうすべてに執着する気が失せた。……お前さんにわしの回心のきっかけを話してやってもいいが、まあ、聞く気はないだろうな」
老人はおかしそうに笑った。
五右エ門のこれほど殺気を帯びた斬鉄剣を突きつけられても、塚原老はいっこう動じる気配はない。
深い湖のように、静かにただここに在る。
老人の目が、五右エ門の鋭いまなざしとピタリと合う。
剣先が、かすかに震えた。

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