泥棒の休日 (前)

徳利から注がれる日本酒のほのかな温もりと、豊富な温泉の湯気が、やわらかく溶け合った。
「ま、いっぱいどうぞってね」
「どうしたのだ、ばかに気が利いているではないか」
いそいそとお酌をかって出たルパンを、五右エ門はわずかに眉をあげて怪訝そうに見やった。
「だってよ、これが日本の休日ってヤツでしょ? 思う存分楽もうと思ってさぁ」
そう云って、ルパンはいつものように享楽的な笑顔を投げかけた。その脇では、次元も頷いている。

確かに休暇に相応しい温泉宿だと、五右エ門も認めるところであった。
山あい奥深く、まるで時間にまで忘れられたようにひっそりと存在する、昔ながらの温泉宿は、非常に上質な湯が湧き出ることで知られているが、今もって交通アクセスがかなり不便な土地柄であるため、周囲は殆ど観光化はされていない。
それが、いっそう「知る人ぞ知る隠れ家」のような風情を高めている。
素朴でこじんまりとしていながらも、どこか風格を漂わせる宿の佇まい、大自然の中にゆったりと広がる露天風呂――どちらもしっとりとした落ち着きを備え、日頃の疲れを癒すにはもってこいの場所であるかに思われた。

宿に着くなり、上機嫌のルパンは相棒たちを誘って露天風呂に向かい、物静かな従業員の一人に、熱燗の準備を云いつけた。
彼らが着いた時は他の宿泊客も見当たらず、こうした特別な注文も快く聞き入れられた。
そういうわけで、今三人は、やや熱めの温泉に身体を浸しながら、日本酒を傾けようとしていたのであるが……

杯を手にしたまま、口をつけようとしない五右エ門を、ルパンは不思議そうに覗き込む。
「何だよ、ナンか不満でもあるわけ?」
「そうではないが」
「お前の為に来たようなモンなんだぜ。久しぶりに日本を満喫したいだろうと思ってさ。温泉で熱燗、これぞ日本に来た時の醍醐味だよなぁ。こういうの好きだろ、五右エ門?」
相変わらずよく喋るルパンの隣で、次元は面白そうにこちらを伺っている。
「お主ら、何か企んでおるのだろう」
五右エ門は湯に浮かした盆に、杯をいったん置き、回りくどい言葉を使わずに、ずばりと切り込んだ。はなから本気で隠す気はなかったのであろう、ルパンはわざとらしくそっぽをむいてとぼけた。
「ナーンにも企んでなんか……」
「ルパン」
非常に雄弁な一言だった。こうなっては下手に誤魔化すのは逆効果だ。

ルパンは次元の、そして自分の杯にも酒を注ぎながら、口を開いた。
「いやさ、せっかく休暇で来てるのに、次の仕事の話すンのも何なんだけっどもがな……次はこの近くにある国宝の仏像を戴いちゃおうかなぁって思って」
やはり、温泉旅行には裏があったのだ。ルパンはどうやら五右エ門のご機嫌を取ろうと画策していたようである。
「仏像?」
五右エ門は露骨に顔を曇らせた。
「おっと、話を聞いてくれよ。嫌がるようなヤマじゃないと思うぜ。盗もうってのは、お前のハハウエが信仰してたっていう観音さんじゃなかったはずだし、なあ次元?」
突然話を振られた次元は、口をつけかけていた杯から顔をあげ、慌てて適当に相槌をうった。
「ああ、確か違ったはずだな。ええと、菩薩像だったか?」
「うん、そんなモンだ」
まだ大した調査もはじめていない段階らしい。五右エ門はいかにも気が乗らない様子で顔を背け、湯から身を浮かした。

すかさず次元が声を掛ける。
「おっと、帰るなんて野暮なことは云うなよ? 次の仕事に一枚噛むかどうかはお前ぇさん次第だが、珍しくルパンがお膳立てした旅行だ。今は楽しくやろうや」
「……」
一瞬迷ったように目を伏せたが、五右エ門は黙って頷き、再び温泉に全身を浸した。
「よっ、いいコト云うねえ、次元ちゃん。そうだぜ、五右エ門。お前好みの若くて美人の女将がいる宿を選りすぐったんだからな」
得意げなルパンの様子に苦笑いしながら、五右エ門は言葉を返す。
「拙者は別に若女将などどうでもいいのだが……それにしても出迎えたあの女将、特に若いとは思えんな」
「ああ、俺もそう思ったぜ。ルパンの話と違ってたな。ありゃ、かなり若作りしてるが、四十代後半だろう」
次元も口を挟んだ。二人とも、そ知らぬ顔で案外女将を良く見ている。そう云われてみればと、ルパンは少し首をかしげた。
「確かにそうだったなぁ。ま、いいじゃないの。広告には誇張がつきものだしな。それに、ああいう年代もそれはそれでオツなモンだぜ」
「お前は女なら何だっていいんだろう」
「ナンか云った、次元ちゃん?」
休日に相応しい他愛のない会話は、彼らがリラックスするに従って弾むようであった。

「おっと、それよりもまずは乾杯と行こうぜ」
せっかく用意させた日本酒がそのままになっていることに気づいたルパンが、杯を掲げて声を上げた。
だがその時、脱衣所に人の気配を感じた彼らはほぼ同時に振り返った。
「貸切ではなかったのか」
五右エ門が尋ねると、ルパンは首を振った。
「いんや、どうせシーズンオフだしそこまでする必要もねえかと思ってな。ふぅん、他にも客がいたのか。……そういやここって混浴だったっけ」
先走った期待に顔を緩めるルパンを、次元はニヤニヤしながら制した。
「湯治に来た婆さんかもしれないぜ」

だが、浴場に姿を現したのは、まったくの予想外かつ嫌になるほどお馴染みの人物であった。
もうもうと立ち込める湯気からぼんやりと見えるその姿は、彼らにとってあまりにも見慣れた――銭形警部のものだったのである。
瞬時に、三人は銭形に背を向け、必死に顔を背ける。
次元が濁った湯の中でルパンのわき腹をつついた。
「おい、どういうこったよ」
「し、し、知らねぇ! こっちが訊きてぇよ」
「ともかく、早く出た方が良かろう」
ひそひそと交わされている会話を知る由もなく、銭形はいたって呑気に洗い場で身体を流していた。
この様子では、ルパンたちがこの宿に泊まっていることを知った上でやって来たわけではなさそうだ。が、だからといって情況が好転するわけではない。

やがて銭形は、無造作に湯に足をつけたが、熱そうに一度引っ込めたりしている。
岩場に設けられた広い湯の中で、ルパンたち三人は常に銭形から最も遠い位置を保ちながら、さり気なく出て行く算段をし始めた。
その時、湯に身を沈めた銭形が、気軽に声を掛けてくる。まだ、気づいていないのだ。
「いやぁ、いいお湯ですな」
慌てふためいた三人は、思わず酒を乗せていた盆をひっくり返す。
「はあ、さようですねぇ。……ど、どうぞごゆっくり」
無視する方が怪しまれると思ったルパンが、奇妙な裏声でそう答え、三人はそそくさと身づくろいする。
背後では、嫌な沈黙が落ちた。じっとこちらを透かし見ている気配がする。
岩場の陰に隠し置いた、武器の入った洗面器を慌しく抱えようとした瞬間、激しい水音が轟いた。

「貴様、ルパンッ!!」
凄まじい水しぶきをあげて湯をかき分け、銭形はルパンめがけて突進してきた。
「逃げろ!」
三人は、一斉に脱衣所目指して駆け出した。
「逃がすかッ」
湯から勢いよく跳ね上がり、滑りやすい洗い場をものともせず、銭形は一心不乱に迫ってきた。鬼気迫る勢いである。
まずは五右エ門が、次いで次元が、浴場から脱して扉の向こうに消えた。ルパンもそれに続こうとする。
が、銭形の放った石鹸が、絶妙なタイミングで足元に滑り込んでくる。
「わっ!」
あまりに咄嗟のことに、ルパンは体勢を整えることが叶わなかった。たまらず、派手な尻餅をつく。
「ここで会ったが百年目! 逮捕だ、ルパン」
どこからか取り出した手錠を片手に、銭形が躍り上がった。



宿に備え付けの浴衣を慌しく羽織りながら、次元と五右エ門はまだ駆け続けていた。
銭形が現れたとなっては、ここでの休日もお終いである。部屋に戻っている暇もないだろう。このまま逃げ出すしかない。
二人は、宿を出て駐車場へ向かおうとしていた。
しかし、何度後ろを振り返っても、ルパンはいっこうに追いついて来る気配がない。
「ルパンのヤツ、来ねぇな。まさか捕まったか」
「引き返すか?」
そう易々とルパンが捕らわれるとも思えなかったが、相手は銭形である。
また、よりによって風呂場で鉢合わせしてしまったため、ルパンお得意の仕掛けも殆ど持ち合わせていないはずだった。
次元と五右エ門は、仕方なく足を止めた。
「まったく世話かけやがるぜ」
次元がそう呟き、改めて拳銃を握りなおした時だった。
どこからか、くぐもったうめき声が聞こえてくる。
二人は「聞こえたか?」というように目を見交わした。

薄暗く、静まり返った板張りの廊下が続いている。気のせいかと、足を露天風呂へ向けかけると、再び悲痛な声が響いてきた。どしんと、床を踏み鳴らすような音も聞こえてきた。
「ここか?」
廊下を少し進んだところの右側に、リネン室として使われている部屋の戸が見える。五右エ門はそっと近づき、中の気配を伺った。
確かに、人の気配がする。それも、複数の人がいるようだ。
ただならぬうめき声が再度漏れてきた。
二人は頷き合うと、抜かりなく身構えながら、一気に戸を開いた。

部屋の中は真っ暗だった。だが、廊下から差し込む明かりでおぼろげな様子だけは伺える。
十人ほどの人間が、手足を縛られ、さらに猿轡を嵌められて、狭い部屋に押し込まれていた。
彼らは、次元と五右エ門の姿を認めると、戸惑いと恐怖に後ずさった。手に拳銃と刀をぶら下げた男二人は、どう見ても堅気ではなかったからだろう。
そんなことに構うことなく、二人は監禁されているらしき彼らの身なりを怪訝そうに眺める。
彼らは全員が、この宿の従業員の格好をしていた。
番頭の印半被、仲居用の揃いの着物、料理人の白衣、そして女将らしき上等の紬――どう見ても、彼らは、この宿で働いている人間たちであった。
だが、着いた時出迎えた「従業員たち」とは、明らかに容貌が異なっている。
縛られたまま涙に濡れている女将と思しき女は、ここへ来る前に聞いていた評判通り、若く、初々しい色気を備えている。明らかに先ほど見かけた女将とは別人だった。
「どういうこった?」
苦々しい顔つきで、次元は口の中で呟いた。
取り敢えず助けようと、五右エ門が一歩前へ足を踏み出し掛けたが、ぴたりと動きを止めた。次元もそのまま背中で気配をうかがった。
無言のうちに、緊迫感が高まる。空気が、重みを増したように思えた。
背後に、ひたと殺気が迫る。
二人は身構えながら、勢いよく振り返った。

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