パンドラ 1

(今度という今度は……いよいよダメかもしれねぇな)
霞みゆく視界とはうらはらに、次元大介は不思議な明瞭さでそう考えた。

狭く、薄汚れた路地裏。濃厚な生活臭が漂う、貧しげな街角。
こんな遅い時間では、酔っ払いの声はおろか、野良犬のうなり声すら聞こえてこない。街全体がすっかり眠りについている。
ただ、自分の荒々しく苦しげな息遣いばかりがイヤというほど響いていた。
わき腹の傷からは絶え間なく鮮血が流れ続け、手足が恐ろしいほど冷たくなってくる。一瞬、ものすごい寒気が走った。
それでも、彼は逃げることをやめようとはしなかった。

今までにも、こうして傷を負い、見知らぬ街を逃げ惑ったことがあった。そう、何度も、何度も……。
いつのことであったかは思い出せぬ。だが、幾度もこうした死線を潜り抜けてきた記憶がある。そのたびに、もうダメかと思ったものだが……。
(ヘッ、そんなに簡単にくたばってたまるかってんだ)
死を覚悟したのもつかの間、彼の心に猛烈な反発心がよみがえる。そう、彼はまだ生きている。
(死んで、たまるかよ。この程度のことで)
撃たれた脇腹が、熱い。
(チクショウ)
こんな風に死んでいくのも、悪くはない。自分には似合いの結末だ。斜に構えてそう考える自分がいる。その反面、「絶対に死んでたまるか」という強靭な意志と欲求をもったもう一人の自分も、間違いなく存在する。

この街には、アジトはもうない。すでにすべてのアジトが銭形によって押さえられていた。
当てもなく逃げ惑っていても、いずれは捕まるか……いや、この分では「死」の方が先に迎えに来そうだぜ、と斜に構えた方の自分が囁いた。
(ルパンのヤツ、ちゃんと逃げただろうな)
この期に及んで相棒の心配をしている自分が、妙におかしかった。大馬鹿野郎だ……そう言ったのはどちらの自分であったか。

さらに目が霞んできた。足もおぼつかなくなってきている。パトカーのサイレンが聞こえたような気がした。
(チ、チクショウ…ッ)
今日だけで、ついた悪態の数は数え切れない。気のきいた悪態ももうネタぎれだ。次元は、いっそう狭い路地に入り込むと、とうとうたまらず膝をついた。
目を閉じてしまったら終わりのような気がした。
壁にもたれかかると、無意識のうちに愛銃を手に取る。この冷たく、何よりも手になじんだ感覚が、愛しかった。
目が、霞む。やけに眠くなってきやがった……
(目を、閉じちゃダメだ……)
すべてが朦朧としはじめた中で、銃を握るその手の感覚だけが、奇妙にリアルだった。

前にも同じようなことがあった。遠い、昔にも。
次元が、再びそんなことを考えながら、ついに瞼を閉じようとした時……
昔会った女を、見たような気がした。





(こりゃ、南米大陸じゃねえか)
いつ頃から、気付いていたのか自分でもよくわからない。
次元は、ただじっと薄汚れた天井を見上げていた。
元は白かったであろうその天井には、所々にシミができていて、その中でも最も大きいシミが、南米大陸の形にそっくりなのだった。
自分が今置かれている状況を知ろうとするよりも、そんなくだらないことを考えてしまっていること自体、まだ彼の頭が朦朧としている証拠であったかもしれない。
どれくらいそうして「南米大陸」を見上げていただろうか。

(南米……)
そういえば、「ここ」も南米だったはずだが。
そこに考えが及んだ瞬間、一気にすべての記憶と感覚がよみがえってきた。
思わず身を起こそうとするが、強烈な痛みが全身を駆け抜ける。
「……クッ…!」
耐え切れずに、苦痛のうめきをあげる。が、その痛みのお陰で、頭の中がハッキリしてきたような気がした。

(どうやら、生きているらしいな、俺は)
この痛みは、限りなく……リアルだ。
撃たれた傷には、きちんとした手当てが施されている。誰かが助けてくれたのは間違いないようだった。
だが次元は、周囲を油断なく見回すと、今度は傷にさわらないよう、ゆっくりと上体を起こし始めた。が、どれほどそっと動いても、これだけの傷に響かないはずがない。声を押し殺しながら、激痛に耐えた。

「何してンの」
ハスキーな声。それでいて妙に幼さの残る口調。
隣の部屋から、一人の女が現れた。
やせっぽっちの小さな娘。漆黒の髪を無造作に結い上げ、大きな男物のTシャツに膝の抜けたジーパンを身に着けている。どこにでもいそうなその娘……
だが、ほっそりした顔のライン、その中で不思議な輝きを見せる大きな蒼い瞳に、次元は確かに見覚えがあった。
「イザベル……!?」
気を失う直前に見たと思った、懐かしい女の名を、次元は思わず呟いていた。
「それはママの名前だよ。あたしはルナ。……忘れちゃったのかい、次元」
娘は、はじめてにっこり微笑んだ。


「ルナ?お前が、あの時のガキか!」
次元は、驚いてまじまじと目の前の娘を見つめた。
「やだねぇ、ガキだなんて失礼な。今やれっきとしたレディだろ」
そう言ってルナはお世辞にもあまり豊かだとはいえない胸を、ふざけてくねくねと突き出して見せた。
「色っぽくねぇなぁ!オイ!」
次元は傷の痛みも一瞬忘れて、大いに笑った。
途端に、再び激痛が走る。
「……ッ!」
「そんなに笑うからバチが当たったんだよ。フン、死にたくなかったら、当分おとなしく寝てるんだね」
「……お前が助けてくれたのか」
次元は、聞くまでもないことだと思いつつも、あまりにも出来すぎた偶然に、聞かずにはいられなかった。かつて、ルナの母・イザベルにもこうして助けられたことがあったのだ。あの時は警察ではなく、マフィアに追われていたのだが……。
「そうだよ。『またいつかあたしが助けてあげる』。以前別れる時、あたしがこう言ったのも忘れちゃったのかい?」
「……」
このルナという娘には、昔からどこか不思議なところがあったのだ。それを、次元はようやく思い出していた。
ルナはそれ以上その時の話をしようとはせず、てきぱきと次元の包帯を取り替え始めた。次元は、なされるがままにしているしかなかった。

「ルナ、イザベルは……どうしてるんだ?」
手当てが終わった時、ようやく次元はそのことを問うた。
ルナは、蒼い目を静かに次元に向けると、淡々とした口調で答えた。
「ママは死んじゃったよ、ついこの間。事故にあって」
「そう、か」
なぜだか、そんな気がしていた。イザベルはもうこの世にいないのだと、すでにわかっていたような……奇妙な感覚だった。
命の恩人であるにもかかわらず、ずっと長いこと会わなかった女。波乱に満ちた次元の人生の中では、ごくささやかなかかわりしかなかった女。なのに、次元の胸には静かな寂寥感がこみ上げる。
彼は、その死を悼むかのように黙って目を閉じた。祈るべき神はもっていなかったのだが。

次元のそんな様子を、しばらくじっと見つめていたルナだったが、相変わらず淡々とした口調で沈黙を破った。
「じゃ、何か腹に入れるモンでも持ってくるよ。アンタを見てくれたセンセイも食べても大丈夫って言ってたし。スープくらいなら食えるだろ?」
「それよりも、俺の銃を持ってきてくれ。それと……煙草だ」
ルナはクスッと笑うと「相変わらずだね」と囁き、次元に言われたとおりにした。
煙草なんか駄目だなどと煩わしいことを言わぬルナに、次元は懐かしさを感じた。




ルナの母・イザベルと出会ったのは、もう何年前のことになるだろうか。
ルナがまだ5、6歳にしか見えなかった頃だから、もう軽く10年以上昔のことであるのは間違いない。
あの時はまだ若く、ルパンと組んでもいなかった。やけに血気盛んで、相当無茶していた時代だった。
マフィアの幹部を依頼通り殺ったはいいが、逃げる時になってドジを踏み、散々追い回されるハメになったのだった。その時も肩に銃弾を受け、痛みに耐えながら走り続けていた。
そんな次元を、イザベルは助けてくれた。
イザベルがどうしてそんな気まぐれを起こしたのか、次元には今になってもよくわからない。女とは不可解なものだと思うばかりだ。
この街で小さな酒場を切り盛りするイザベルなら、マフィアに逆らうことがどれだけ恐ろしい結果になるか、知らぬはずはなかったのに。

だがイザベルは、次元に何一つ聞こうとはせずに、傷が治るまで匿い続けてくれた。
あの時も意識が戻ってすぐ、彼は煙草を要求したのだった。イザベルは「死んでも知らないわよ」と言いつつも、それ以上口うるさいことを言わずに煙草を差し出した。
ちょうど、さっきのルナのように……。
次元は、しみじみと煙草を味わいながら、またぼんやりと天井の南米大陸を見つめ続けるのだった。

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