Poison (前)

鬱蒼と生い繁る深緑の葉陰から、それでも今が昼であることを示すかのように、わずかな木漏れ日が差し込んでいる。
意図されたものなのか、この森には葉の大きく厚い種類の木々が、それも樹齢の長い木々がとても多く、立ち入るものの気力を萎えさせるかのように、常に薄暗く、陰鬱な雰囲気が立ち込めている。
まるで中世のヨーロッパの姿が、時間を越えて立ちあわられたかのような、原初的な深い森。
捩れて節くれだった枝々が複雑に絡み合い、来訪者を拒絶しつつも、隠れた悪意をもって森の奥へ迷い込ませようとするかのように、高く、あるいは低く差し出されている。
ざわざわと風が梢を鳴らす、普段なら心地いいはずのそんな音すらも、どこが不気味な響きが感じられる。

しかし、そんなことにはまるで関心を払っている様子もなく、ルパン三世は、その陰気くさい森の中を軽快に車を飛ばして走り続けていた。

これほどに広大な森が、パリからわずか1時間ばかり郊外へ出た辺りにあるとは、ルパンにも思いも寄らぬことであった。
しかも調べてみると、この森すべてが私有地であるともいう。
そして広大な森の主は、その深奥部に屋敷を構え、ひっそりと住み続けているのである。
果たしてルパンが今向かっているのは、その屋敷なのであった。


ルパンの元に「招待状」が届いたのは、数日前のことだった。
上品な光沢のある高価そうな封筒に、流麗な文字でルパンの名が記されている。
そして、今時珍しい封蝋がしっかりと押され、古式ゆかしく封が閉じられていた。
封筒の裏に差出人の名はない。
だが、その封蝋の印には、どこかで見覚えがあった。
ルパンはしばしソファに横たわりながら、封筒を光に透かしたり、匂いをかいだりして、もてあそんでいた。

「誰からだ?」
そんな様子に気付いた次元が何気なく声を掛ける。
「この紋章、どっかで見たような気がするんだけっどもがなぁ。誰だったっけ?」
ルパンはヒラヒラと封筒を振って、次元に示して見せた。
中央部にグリフォンを重ねた、斜め十字の紋章である。
「……? 見たことがあるような気もするが。でも俺は知らねぇな。開けてみりゃいいじゃねぇか」
そう言って次元は、サイドボードの戸棚から細身のナイフを取り出すと、ルパンに差し出した。
ルパンもようやく起き上がって、ナイフを封筒に滑らせる。
手紙から立ちのぼる仄かな香水の匂いが、鼻孔をくすぐった。

手紙は、古めかしく丁重な文体ではあるがいたってシンプルな内容で、ルパン三世を当屋敷に招待したい旨が書かれているだけであった。
正体の目的も、日時も書かれていない。
屋敷の場所の簡略な地図と住所が美しいカードに書かれ添えられている。

差出人の名前は、ただ「ロクサーヌ」とあるばかりである。

「ロクサーヌ? ロクサーヌってあの……?」
ルパンが手紙から顔を上げ、思わず尋ねるともなく呟いた。
それを聞いた次元は帽子の陰で目を見開き、唸るように
「まさか『毒薬使いのロクサーヌ』かよ」


「毒薬使いのロクサーヌ」とは、遥か中世の時代から脈々と受け継がれている、名高い暗殺者の名前である。
この世のありとあらゆる薬草と毒薬に精通すること、他の追随を許さぬ謎めいた古き一族。
その中に生まれた、最も優秀な女に代々「ロクサーヌ」の名前が受け継がれるという。
「彼女」は独自の高い毒薬精製技術と、そしてそれらを用いた密かで確実な暗殺を生業とし、歴史の裏舞台で暗躍していたと伝えられる。
金次第でどの国の、どんな目的の暗殺にも手を貸し、依頼者の望みのままに、完璧に「単なる病死」に見せかけたりもすれば、あるいは見るも無残な醜く変わり果てた骸をさらさせ、残忍な見せしめにすることもしたという。
用いる毒とそのサジ加減次第で、如何ようにも死を演出できる。
それがロクサーヌという暗殺者であった。

最近では、暗殺に毒薬が使用されることも昔に比べれば少なくなったせいか、現代の暗黒街ではかつてほど知られた存在ではないが、伝説として今でも密かに語り継がれている。

そんな女暗殺者から、ルパンに招待状が届いたのである。

「おーお、おっそろしい招待状だな」
次元は冗談めかして肩をすくめると、ルパンの向かいのソファに身をゆだねる。そして無意識のうちに、煙草に火をつけた。
じっとその招待状を見つめている相棒に気付くと、次元は煙と共にいかにも嫌そうな声を吐き出した。
「おいルパン、まさかそのご招待とやらを受けるんじゃねぇだろうな」
「いやぁ、だって次元、考えてみたってこんな機会、滅多にないんじゃないの。生ける伝説とご対面、だぜ?」
ルパンは次元と正反対に、いかにも楽しげな様子である。すっかり好奇心を刺激されたようだ。
「けっ、バカらしい。毒薬使いと会ってどうしようってんだ。おかしなもの飲まさせて、殺されるのがオチだぜ」
殺されるかもしれないという脅し文句など、彼を引き止めることに何の効果もないとわかっていながらも、つい次元はそう忠告せずにはいられない。

ルパンは案の定次元の言葉などお構いなしに、
「だってさあ、ロクサーヌって代々すっげぇ美女だって噂だぜ。それを拝んでみたいじゃないのよ」
と、呑気なことを言いながらニヤニヤと笑っている。
「美女の招待を受けないなんざ、俺様の流儀に反するってね」
「お前ってヤツは……本当に死ななきゃ治らねぇ、例のアレだな。まったく! 今の『ロクサーヌ』が何歳かなんて、誰も知らないんだろ? すげぇババアかもしれねぇんだぜ」
「ああ、まあそうかもねぇ。わかったよ、だったらすーぐに回れ右!して、帰ってくることにするからサ」
すでに行くことを決めてしまったらしきルパンの態度に、次元は我知らず声の調子を強めた。
「どうなっても知らねぇぞ。どうせお前に恨みを持ったどこかの組織が、ロクサーヌに暗殺を依頼したに決まってんだ。ノコノコ出向いて一服盛られに行くなんざ、狂気の沙汰だぜ!」
「大丈夫、大丈夫。相変わらず心配性だねぇ、次元は」

そう気軽に言い放つと、ソファに放り出しておいた自分のジャケットをフワリと肩に掛け、ルパンは振り向きもせずに手を振って、部屋を後にした。
「プレゼントでも買ってこよーっと。オンナの元に行くのに、手ぶらってワケにはいかねえもんな?」
部屋に残された次元は、いつものように深く溜息をつくばかりである。



そして数日後の今、ルパンはようやくロクサーヌの屋敷へ赴いたのであった。
どこまでも続くかに思われた陰鬱な森も、いよいよ途切れる気配を示し、それに従って道が徐々に上り坂になり始めた。
ついに屋敷がルパンの目の前に広がる。

(うひゃあ)
思わず笑いたくなるほどに、イメージ通りの屋敷であった。
由緒正しげで、だがもったいぶった重々しさを湛えた、バロック様式を取り入れた古い広大な館。あまりに長いことここに建っていたからか背後の森に溶け込むかに見える。
周囲を囲む木々同様、陰鬱で暗澹とした雰囲気が、人を威圧する。
(まるで魔女の館だね。もしくは幽霊でも出そうな雰囲気……)
屋敷を見上げながら、ルパンは皮肉にそう考えた。




「お待ちしておりました、ルパン三世様」
そう言って頭を下げたのは、これまたこの屋敷に相応しい、冷徹な恭しさで身を鎧った典型的な執事だった。
不気味なほどに表情を変えない、初老の男である。
彼は、一部の隙もなくスーツを身にまとい、完璧な作法でルパンを応接間に導いた。
通された部屋もまた陰気で重々しい。緞子のカーテンが昼間だというのに引かれたままなのが、余計その印象を強めているのだろう。
だが、ルパンの好みかどうかはともかくとして、調度品の趣味は悪くはない。
室内には異国的で不思議な香りが漂っている。
ロクサーヌからの招待状と、同じ匂いである。
ルパンは興味深げに部屋の中を見回し、置いてある燭台や、無造作に壁にかけられているベラスケスのレプリカらしき絵を眺めた。

「本物……?」
その絵を眺めながら、ルパンは思わずひとりごちた。ベラスケスのこの作品なら、本来プラド美術館にあるはずだ。
その時だった。
「さすがお目が高いわね。それは本物のベラスケスよ、ルパンさん」
低く、そして甘く掠れるような声が、そう言った。
「十数代前の『ロクサーヌ』が、ある国の王から直々に、邪魔者を密かに『病死』させたことの報酬として戴いたものなの」
そしてゆっくりとルパンの傍に歩み寄ってきたのは、噂にたがわぬ美しい女だった。
美しいけれども、どこかぞっとするような冷たさと、得体の知れぬ重々しさを併せ持った女――彼女がロクサーヌであった。

闇そのもののような漆黒の髪を長く腰の辺りまで垂らし、ロクサーヌの白く小さな顔を縁取っている。
華奢な体つきはいかにも気だるい優雅さを保ち、黙って彼女を見つたままのルパンに、座るよう促した。
そうして伸ばされた腕はあまりに白く、蛇身にも似た青みを帯びて、ルパンの目に焼きついた。
その面立ちと立ち振る舞いから、彼女の年齢を推し量ることはなかなか出来なかった。少女と老女でないことだけは確かであるが。

「お招きいただき、あんがとさん」
無造作に腰を下ろすと、ルパンは自分のペースを取り戻し、いつもの調子で明るく言った。そして長い足を軽く組み、挑発的にも感じられる不躾な視線を、ロクサーヌに投げ掛けた。
まるで動じる素振りもなく、物静かな微笑で、彼女はそれに応えた。
「いやぁ、近くで見るとますますベッピンさんだことぉ」
茶化しているようでルパンの賞賛は、案外本気のようであった。
間近で見ると、ロクサーヌの瞳は金褐色に光り、いっそう謎めいて見える。
だがロクサーヌは、そんな賞賛は聞きなれていると云わんばかりに、ルパンを軽く受け流すと、テーブルの上のベルを鳴らし、執事を呼んだ。

すべてを心得ているかのような執事は、相変わらず恭しい態度で入って来、年代もののワインと栓抜き、そして二つのグラスを丁寧にテーブルの上に置いた。
深く一礼すると物音も立てずに出て行く。
「まずはお近づきのしるしに、乾杯しませんこと? ルパンさん」
ロクサーヌはルパンを上目遣いに見つめつつ、嫣然と微笑んだ。

その時のルパンは、わずかにも表情を変えることはなかったけれども、ロクサーヌは先回りして皮肉に囁いた。
「もっとも、『毒薬使いのロクサーヌ』の差し出したお酒を飲んでくださるわけはありませんわね。今までお招きしたお客様の誰一人として、そんな勇気があった方はいらっしゃいませんでしたもの」
「勇気」という言葉を、さり気なくではあるが、微妙に強調して発音した。
「そりゃ〜そうだろうなぁ。俺だって、飲んでいいものかどうか迷ってるもんネ」
気負いなく、ルパンはあっけらかんと答えた。

泰然とした様子でロクサーヌは頷く。
「正直でよろしいわ。いいの、殆どの方はそうやって誤解されていますもの。……私は、確かに毒薬使いの暗殺者です。でも、決して無意味に人に毒を盛る『毒殺魔』ではないのですけれどね」
わずかに首をかしげ、彼女はその頬に哀しげな影を浮かべた。が、すぐにそれは幻のように消えてしまう。
あまりにも一瞬だったためそれがルパンに見せるための演技だったのか、それともつい垣間見せてしまった彼女の真実の哀しみであったのか、ルパンは見定めることができなかった。
すでにロクサーヌは、妖艶な蒼白い微笑みを浮かべて彼を見据えている。

「それにもしも私が貴方を殺そうと考えているのでしたら、警戒される飲み物なんかにわざわざ毒は盛らないでしょうね。そんなのは素人のやる幼稚な手段です。そんなことをしなくても、その気になりさえすればいくらでも貴方を毒殺できるんですのよ」
ルパンは思わず首をすくめた。
そんな様子を満足げに眺め、ロクサーヌは毒殺について語り始めた時から、奇妙に生き生きとし、言葉を続けた。
「気付かれないうちに貴方の衣服に仕込んだりすることも出来ますし、この部屋に焚かれているお香が毒かもしれないわ。私にはこの世のありとあらゆる毒は効 きませんからね。……あるいは、貴方に差し上げた招待状に、触っただけで死に至る、遅効性の猛毒を滲み込ませておいたかもしれなくてよ?」

一瞬、しんと張りつめた空気が、薄暗い部屋を覆った。
だがすぐにルパンの気の抜けた声がそれを破った。
「いやぁ、参ったね、参りましたよ、ロクサーヌちゃん」
ちっとも参ってなさそうな様子で、だが道化たようにルパンは両手を挙げてみせた。
再びロクサーヌは、満足げに微笑んだ。
「冗談よ、ルパンさん。貴方にどんな毒も盛ったりしていません。安心なさいな」

いよいよルパンも不敵に笑った。彼女の挑戦を、受けて立つ気になったのであろう。
「いいよ、乾杯しましょうかね。お近づきのしるしに」
「さすがね。……嬉しいわ、お客様とこうして一緒にグラスを傾けることが出来るなんて」
「乾杯の後で、ルパン流のお近づきのしるしも受けてくれると、俺も嬉しいんだけっどもがなぁ。どう? ロクサーヌちゃん」
そう言って、露骨にキスの形に唇を突き出して見せた。思わずロクサーヌは苦笑いする。
「本当に面白い方ね。私の身体すべてが毒で出来ているという噂はご存知?」
「そんな毒なら、むしろ当たってみたいね」
平然とそう言い放つルパンをしばし興味深げに見つめてから、ロクサーヌはゆっくりと頷いた。
「いいわ。貴方がその気でいられるなら、ね」


ワインボトルに手を伸ばそうとして、ふいにロクサーヌは手を止めた。
「……ねえ、お客様にこんなことを頼むのも失礼ですけれど、貴方がワインを開けて注いで下さる?」
何も仕掛けをしないという意思表示のつもりか、ロクサーヌはルパンにワインとグラスを手振りで指し示す。
軽く頷いて、ルパンはワインのボトルを手に取った。ボトルにもコルク栓にも、異常は認められない。
ルパンは慣れた手つきで、たちまちワインのコルク栓を開けた。
そして、深紅の薫り高い液体をゆっくりとグラスに注いだ。

「さあ、どうぞ」
ロクサーヌはルパンから先にグラスを取るよう促した。ルパンは無造作に一つのグラスに手を伸ばした。
残ったほうのグラスを、彼女が取り上げた。
二人は同時にグラスを軽く掲げ、静かに微笑みを交し合った。悠然とした穏やかな空気の中に、かすかな静電気が散るような、そんな微笑を。
「二人の出会いに」
そう云うや、彼女はワインの芳醇な香りを楽しむと、ゆっくりとそれを飲み干した。
ルパンもまた、一気にワインをあおる。

そのワインは、例えようもなく魅惑的な悪徳の味がした。

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