Pride (前)

鬱蒼とした森の中を抜ける細い一本道を、一人の男が近付いてくる。
その気配を敏感に察知すると、石川五右エ門は静かに目を開いた。
慌しい足音と気配は、いかにもその男らしいというべきか。それとも、男の今の心情を如実に表し、あまりにも穏やかならぬものだというべきか。
男の影は、まだ遠い。
しかし、この屋敷を目指していることは明らかであった。
五右エ門はゆっくりと立ち上がると、今まで腰を下ろしていた玄関先のポーチから踏み出し、彼の方へと近づいて行く。
左手には、当然のことながら斬鉄剣が握り締められている。いつでも、即座に抜けるよう、みじんの隙もなく。

(どうしても、今回は使わなくてはなるまい、斬鉄剣を……)
己に言い聞かせるかのように、そう心の中で呟いてはみたものの、実際五右エ門にはまだ迷いがあった。
今回この刀を振うことが、本当に正しいことなのか。何度考えても答えは出ない。
いや、正しい、間違いということが問題なのではない。問題は、自分に出来るか、出来ないか、なのだとも思う。
(ルパンの言葉通りに、俺はここを守りきるべきなのだろうか)


五右エ門がそうして迷っている間にも、男はすごい速さで走り寄って来ていた。
男とは、銭形警部である。その厳つい顔は、いつも以上に必死の形相を見せている。
もはや迷っている暇はない。
五右エ門は、自分からも銭形へと数歩踏み出し、彼の前にまさに立ちふさがる格好となった。
二人は、無言で対峙した。その一瞬、激しく、見交わす。

「やっぱりいやがったな、五右エ門」
銭形は、うんざりした口調で言った。
「退け。わかっていると思うがな、俺は例の解毒剤を持ってきたんだ。ここを通せ。お前が律儀にここを守っているってことは、ヤツはまだ生きているんだろう?」
「……」
じっと、銭形の目を見据えたまま、五右エ門はまったく動こうとはしない。そんな五右エ門の相手をしている時間はないとばかりに、銭形が彼を避けてそこを通り過ぎようとする。
が、五右エ門は無言で、銭形の行く手を鞘に入ったままの斬鉄剣をかざすことで遮った。
「行かせるわけにはゆかん。お主は、その後ルパンを逮捕するつもりだろう」
銭形は、思わず怒鳴り散らそうとするかのように、一度大きく口を開きかけたが、五右エ門に対してそんなことをしても効果がないことが分かりきっているためか、辛うじて思いとどまる。銭形の出した声は低くく、だが思いのほか切実であった。
「五右エ門。俺は刑事だ。泥棒が目の前にいれば捕まえる。それがルパンなら尚更な」
「ルパンは今、普通の状況ではない。卑怯だとは思わぬのか」
銭形は、ほんの少しだけ苦く笑ったようだったが、すぐに険しい顔つきに戻った。
「俺は武士道ごっこをしているわけじゃねぇよ。卑怯だと言われたって痛くも痒くもない。どんな時であろうと、ルパンを捕えるチャンスが来りゃ絶対に逃がさ ん。……だがな、五右エ門。今はそういうことを言っている場合じゃないことくらい、お前だってわかっているはずだ」
「……」
「だから邪魔するなッ! ヤツの容態は、一刻を争うんだろうが!」
銭形は、ついに感情をあらわに叫んだ。



ルパンが、世にも稀な毒薬にやられたのは、つい十数時間前のことである。
南アジアの小さな小さなS王国。その国に伝わる宝冠を盗むとルパンは大々的に予告状を出し、例外的にS国入国を許された銭形の警備もものともせず、彼は次元と共に奪い去った。
だが、その国は未だ鎖国に近い状態を保ち、その国独自の奇妙な文化や風習を数千年にもわたり守り続けている謎の多い国でもあったのだ。
宝冠を盗んだ際、王宮の庭に放たれていた、豹に似た獰猛な獣に襲われ、ルパンと次元は危うく噛み殺されるところだった。辛うじて逃げ切ったものの、ルパンは背中を、その獣の爪でわずかに掠められた。
大した傷ではなかった。
だが、このアジトに辿りつくや、ルパンは凄まじい高熱を発して倒れてしまう。
その獣の爪には、侵入者を確実にしとめるために毒が仕込まれていたらしい。

暗黒街では名医と名高い闇医者に診せても、まるで埒が明かない。高熱の原因が毒であることだけはわかったものの、その毒を取り除かないことにはどうにも手のうちようがないという。
ルパンを蝕んでいるのは、極めて珍しい毒であった。職業柄、毒薬には詳しいはずの闇医者も、何の毒なのか見当もつかない有様で、多分S王国に伝わる特殊な毒の混合物だろうと推察するに留まった。
当然、解毒剤などない。
そして、それはかなり強烈な毒性を持っていることに間違いはないようだった。
ルパンが即死していないのが、不思議なくらいだと医者は言った。

彼が今、こうして辛うじて命を繋いでいるのも、すべて特異体質のおかげのようである。
もともと、ルパンは人並みはずれて毒の効きにくい体質である上に、毒物への耐性を意図的に、幼い時から高め続けていたのが、今回幸いしているのだった。
その医師に多額の報酬を約束して、毒物の分析と解毒剤の精製も急がせてはいる。しかし、その作業にはかなり時間が掛かるのだという。
解毒剤がなければ、いくら特異体質のルパンといえども、そう長くは保たない。
時間がない。
それは、五右エ門にも、当然わかりきっていることであった。



銭形は、イライラしながらもさらに言った。
「どうせ今、次元がS国から解毒剤を盗み出しに行ってるんだろうが……。そんなのを待っていたら、ヤツは死んじまうぞ」
「……ルパンは、次元以外、誰もここを通すなと、繰り返し言っているのだ。誰も、な」
銭形が、解毒剤を持ってくることを、予めルパンはわかっていたかのように。

ルパンは、銭形の情けを受けて生き延びることよりも、次元の帰還を待つことを選んだ。己の命をそちらに賭けるつもりなのだ。
そして五右エ門は、ルパンのその強い意思を貫かせるために、ここにこうして立ちふさがっている。

ルパンという男は、五右エ門からすれば、時に信じられぬほどいい加減で、享楽的で、不可解な行動や言動をする。
どれだけ長く傍にいても、決して理解することが叶わぬ男。
だが、五右エ門にもルパンと、ただ一つ分かり合えることがある。誰よりも強く。
それは――
 
「時代錯誤なサムライごっこはよせ! 時間がないと言っとるだろうがッ!」
「ルパンは、お主の情けを受けてまで生き延び、そして囚われの身になることを潔しとはせぬ。そんな男よ」
ついに、五右エ門は鞘から剣を抜き払った。自分自身の覚悟を決めるかのように。
あくまでもルパンの意志を汲み銭形を通さずに、かつルパンを助けるのだとしたら、銭形を斬り、力ずくで薬を奪うしかない。
白刃が、木漏れ日を受けて光を鮮やかに散らす。
「この馬鹿野郎どもめが……」
五右エ門から放たれる静かな殺気に、銭形も思わず身構える。
「どいつもこいつもカッコつけやがって! 死んだら何にもならんだろうが! それにな、俺がヤツに解毒剤を持ってきたのは、情けなんかじゃねぇ、単なる仕事だ! そう考えれば済むこったろう!」
「参る」
五右エ門は、これ以上銭形の言葉を聞くつもりはなかった。
聞いて、心が再び迷い乱れるのを、恐れたのかも知れぬ。
ルパンが決して殺さぬと決めている「刑事」である銭形を……ましてや口先では何と言おうと、今ルパンの命を守ろうとしている銭形を、果たして斬ることが出来るのだろうか、と。
今、己がやっていることは、一体何なのだろうか、と。


(五右エ門、誰も、通すんじゃねぇぞ。特にもうじき、うるっせぇのが来ると思うがな)
そう言って、ルパンは苦しげな息の下でさえも軽く笑みを浮かべて見せた。
そんな様子を思い起こし、五右エ門は刀を振う。
今、ルパンのために出来ることといえば、それしかない。



銭形の方へ一歩、激しく踏み込み、五右エ門は斬鉄剣を一閃させる。
紙一重で、銭形はどうにか身をかわす。避けきれなかった、銭形のコートの裾が、パッと空に舞った。
「五右エ門! このッ…」
わずかな間もおかず、五右エ門は刀を反して鋭く斬りつける。
その攻撃を予期していたかのように、銭形は思いきって大きく後ろに跳んで、五右エ門との間合いを取った。
斬鉄剣の一閃では届かぬ距離を保ちつつ、再び睨みあうことになった二人は、じりじりと互いの位置を探りあう。

ついに銭形は、自分の最も得意とする武器である、手錠を取り出した。
それを見た五右エ門の目が、スッと細められる。
「この期に及んで、お主はまだ俺を生け捕ろうなどとするつもりか」
「どうせお前にピストルなんざ効きゃしねぇからな。それに、コレが俺の主義だ」
そう言って銭形は、手錠を鳴らした。

あくまでも、生かしたまま、捕える。
勿論、ルパンも例外ではない。絶対に生かして逮捕する。
銭形の武器が、そう主張しているように見え、五右エ門は一瞬苦しげに眉をひそめた。

次の瞬間、銭形の投げ手錠が五右エ門の右腕を掠める。無意識のうちに体を左へ傾け、避ける。と、同時に左腕をも手錠が襲う。
「ハッ!」
辛うじて手刀でそれを払い除けたものの、銭形が二つの手錠を投げたことに、五右エ門は不覚にも気付かなかった。
自分の体の一部であるかのように巧みに、銭形はワイヤーを繰って素早く手錠を己の手元に引き戻す。

(本気だ。今日の銭形は、いつになく……)
隙がない。迫力が違う。
地道なタイプに見えて、案外ムラッ気のある銭形という男は、対戦するごとに気配が違い、五右エ門からすれば実力が図りにくく、やりにくいことこの上ない。
何より、今の銭形には断固として迷いがない。
それが、決定的である。


手錠を繰り出しながら、銭形は叫んだ。
「五右エ門、お前はルパンが死んだら、責任とって手前ぇの腹でもかっさばきゃ済むとでも思っているンだろうがな、そうはいかねえんだよ! そんなこと じゃ、済まねぇことがあるんだって、お前も本当は分かっているんだろうッ?! 素直にここを通せッ、こんなことをしている間に、ヤツが死んだらどうするん だ!」
右に、左に、五右エ門は何とか銭形の投げ手錠を巧みに避け続けつつ、彼の懐に飛び込む隙をうかがう。投げ手錠の冴えよりも、銭形の言葉こそが五右エ門を怯ませそうになる。

「ルパンが怖いか? ヤツを警察に売ったことになるのが、そんなに怖いか!」
違う。ルパンを恐れてなどいない。
挑発するように言い放たれた銭形の言葉。だが、銭形だとて、五右エ門がルパンを恐れるが故に必死に戦っているとは、思ってはいないだろう。
銭形も必死なのである。彼には彼なりの論理があり、そして複雑な感情と、強い執念がある。決してこんなところでルパンを死なせたくないと、ある意味誰よりも思っているのは、この男なのかもしれなかった。
五右エ門は、激しい気合と共に大胆に踏み込むと、袈裟懸けに剣を振るう。が、その渾身の一撃も、銭形のネクタイを切り裂いただけで虚しく空転する。
ほんの僅かな迷いが、五右エ門の普段の圧倒的な剣さばきを微妙に狂わせていた。


五右エ門にはただ、あの誇り高い男の気持ちが、我がことのように、その部分だけは不思議なほど鮮明にわかるのである。
もしも自分がルパンの立場であったら、この宿敵の情けを受けた挙句、捕縛の身になることなど、望みはしない。
ならばいっそ、死に際だけは潔く……

上段から、そして下段からと、巧みな攻撃を仕掛ける五右エ門を睨み据え、その剣を避けざま後方へ一歩ずつ退く。だが退きつつも、銭形は吼えた。
「このままでは単なる犬死だ! ヤツを……つまらねぇ毒なんかで殺していいのかよッ! え? 五右エ門! お前は、アイツをそんな風に死なせていいと思っているのかっ?」
「……!」
思わず息を呑んだその時。銭形の裂帛の気迫と共に投げられた手錠が、ついに五右エ門の左手を捕えた。

(死なせていいなどと、思ってはいない)
もしも。もしも、自分がルパンの立場だったとしたら、無様に生き永らえたくはない、とは思うだろう。
――惨めな生など、誇り高い死に劣る。ルパン自身も、きっとそう思っているに違いない。
そして、五右エ門がそんな気持ちを分かち合える男だと、ルパンは知っていたからこそ、彼にこうした役目を言い渡したのであろう。
だが。
(俺は、実際にはルパンではない)
(俺は……『俺自身』は今、一体どうしたいのだ)

左腕に絡む手錠は、銭形が強く引っ張ることで五右エ門のバランスを崩し、自由を奪う。五右エ門はそれを無視することが出来ず、思わずくるりと剣を回して断った。
が、その一瞬の隙を銭形が見逃すはずもなく、五右エ門の斬鉄剣を握った右腕に、しっかりと冷たい投げ手錠が掛けられた。

(死なせたくない。ヤツを)
初めて明確に、「死なせたくない」という言葉を頭に浮かべてしまった瞬間、ふと、五右エ門の捕えられた右手から、力が抜けそうになっていく。張りつめていた何かが、脆くも崩れ落ちていきそうな危うさを、感じる。
今も辛うじて、捕えられた右手で斬鉄剣を握り締めているのは、もはや戦うためでなく、己を支えるためだけのような気すらした。
ギリギリとワイヤーを手繰り寄せながら、慎重に銭形は五右エ門に近付いてくる。
勝ち誇るでもなく、哀れむでもなく、五右エ門を真正面から揺らがぬ視線で見据えている。


(ルパン……)
内心いまだ激しい葛藤の残滓に苦しみながらも、全身から力が抜けていくことを自覚したその時であった。
歩み寄る銭形と、立ち尽くす五右エ門。二人を繋ぐワイヤーが、一発の銃弾によって断ち切られたのだった。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送