パンドラ 3

「この箱、開けてないでしょうねッ、次元!」
普段は、この年齢の女の子にしてはあまりにも落ち着いて淡々とした様子をしたルナだったが、この時は異様な激しさで次元に詰め寄った。
「開けてねぇよ。……世話になってる家のモンを盗むほど、俺ぁ、落ちぶれちゃいないつもりだぜ」
次元は低く、答えた。
その途端、ルナは我に返ったように次元を見上げ、どうしたらいいのかまるでわからないように微かに首をふり……力なくうな垂れた。
「ごめんよ、次元。そんなつもりじゃなかったんだ。どうか、気を悪くしないでおくれよね」
「……」
「これ、お守りなんだよ、あたしの」
「お守り?」
次元は、ちょっとムッとしていたことをこの際棚上げして、思わず訊ねた。
「イザベルが、持っていただろう? この箱」
そう次元が訊くと、ルナは嬉しそうに頷いた。
サイドボードから、その箱をそっと取り上げると、いかにも大事そうに胸に抱く。
「ママがね、病院のベッドで言ったんだ。『ママの大切にしていた箱をルナにあげる。ずっとずっと大事にして……何かどうしても困ったことがあった時に、それを開けてね。きっとルナを守ってくれるから』って」

ルナは、そこに母がいるかのように箱に向かって微笑みかけた。
「困ってない時に開けてしまったら、何だかとんでもないことが起きそうな気がするんだ。だから、いざって時まで、絶対に開けないの」
「そう、か」
 イザベルも、随分意味ありげなことを言い残して死んだものである。次元だったら、気になってすぐに開けてみてしまうだろうが……
「今まで、開けたことがないのか?」
「あるわけないじゃん。まだそんなに困ってないしさ」
そう言って、ルナはまたそっと箱をいつもの位置に戻した。それほど重さがあるわけではないらしい。
「何だかね、開けずにとっておく方がいいような気がするんだ」
「……?」

ルナは、自分が感じていることを的確な言葉で表現することがそれほど得意な人間ではないようだった。
何とか次元に伝えようと、一生懸命言葉を捜しながら喋る。
「こういう風にさ、何かあった時に助けてくれるものがあるでしょ。それはねギリギリまで、本当にどうにもならなくなって困り果てた時にしか、開けちゃダメ なの。ちょっとくらいのタイヘンさで開けちゃ、ダメなのよ。……なんでかっていうとね、この箱があるって思っているうちは、わりとどんなことでも我慢でき ると思うんだ……」
とても上手いとは言えない説明の仕方であったが、次元には彼女の言いたいことが、何となくわかるような気がした。

「いざとなったらあれがある」という、最後の切り札のようなものをもっていると信じている間は、ある程度の苦労は乗り越えられる。
どうにも我慢が出来なくなった時には、「それ」を開ければいいのだから。そうすれば、すべてが解決できるのだから。
寧ろ、この程度の苦労で「最後の切り札」を使ってしまっては、勿体ないという意識が働き、「もう少しだけ自分で頑張ってみよう」と力を振り絞れる。
ルナが言いたかったのは、こういう気持ちなのではないのだろうか。

「今も、一人でお店続けたりして、いろいろタイヘンなんだけど、開けたりしないの。開けちゃったら、何だかあたしを守ってくれているママの力までどこかへ飛んでいっちゃうような気もするし」
「そうか……」
ルナには、その箱の中に何が入っているかは、あまり問題ではなくなっているようだ。
その閉じられた箱自体が、ルナの「お守り」であり、「希望」なのである。


「何だか、パンドラの箱みたいだな」
そう言ってしまった瞬間、次元は自分の迂闊さに舌打ちしたくなった。
「パンドラ? 誰、それ?」
ろくに学校へ行っていないルナは、ギリシア神話について、殆ど何も知らないようだった。
「まあ、昔話みたいなものさ」
「どんな話? ねえ、次元」
そうやって、次元に話をねだる様子は子供の頃とまったく変わっていない。次元は仕方なく話し始めた。

「ギリシア神話の中に、パンドラって人間の女が出てくる物語があるんだ。パンドラってぇのは神サマたちに知恵だの美貌だの、さんざん色んな贈り物を貰った 最初の生身の女なんだが……その神サマの贈り物の中に、『好奇心』って厄介なモンもあってな。好奇心とともに珍しい金の箱を、ヘルメスって神サマが与える わけだ。『不思議なものが入った珍しい箱だから、決してあけてはいけない』なんて、言ってな」
「で、開けちゃうんでしょ、パンドラって女」
ルナは、パンドラに共感しているような、それでいてパンドラを哀れんでいるような、複雑な表情を見せつつ次元の話の先を促した。
次元は頷く。
「ああ、開けっちまうんだ。いけない、いけないと思うと余計気になってくるように出来てんだな、人間ってヤツは」
「それで? 開けたら何が入ってたの?」
「それが、神サマってえのはとことん底意地の悪いのさ。パンドラを作ったこと自体が、人間の誇りを抑えつける計画の一環だった。まあ、何ともまわりくどい 作戦だけどよ。パンドラに、その金の箱を開けさせるように仕向けて、中にはとんでもないものを入れておいた」
ルナは息をひそめて聞き入っている。
「箱を開けた途端に、ありとあらゆる災いが飛び出した。獰猛な獣と一緒に人間を今でも煩わせる病気や貧しさ、犯罪……そうしたモノが一気に人間世界に溢れ出して、今に至るってわけだ」
「ひっどいなぁ。じゃ、今あたしら人間が病気になったりビンボーして苦しんでいるのって、パンドラが余計な好奇心を起こして箱を開けちまったせいなの?」
「そういうことになるな」
次元は、静かに笑った。ルナは本気でパンドラに腹を立てているようにも見えた。
「やっぱり、やたらに開けるモンじゃないんだよ、箱は」
彼女は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。

「それでオシマイなの、そのお話?」
「ああ……。いや、開けちまったパンドラはビックリして慌てて箱を閉じるんだ。今更、だけどな。……で、箱の中にたった一つ残ったのが、希望なんだと」
ルナは小首を傾げて考え込んだ。
「やっぱり神様って結構優しいんじゃないの? 最後には希望を箱に入れといてくれたんだろ? でも、ナンカ変だな。神様の計画と合ってないような」
「……所詮昔話だからな。そういうものだろ」
「ふーん」

ルナが意外と鋭いので、次元は内心ひやりとした。慌しく、次元は煙草に火をつける。
箱の中に残っていたのは、「希望」というモノ自体などではない。
「前兆」……つまり予知能力である。
ありとあらゆる災いとともに、予知能力を入れておくとは、神の意地の悪さも念がいっている。次元は一人皮肉に考えた。
人間は、突如降りかかる災いに耐え抜くことは出来ても、災いに満ちた、一切の希望のない未来が「見える」ことには到底耐えられない。
その神話によると、今人間がしぶとく生き続けているのも、パンドラが箱の中に予知能力を封じ込めておいたおかげで、どんなに暗い未来であってもそれを知ることなく、希望だけは持っていられるためだということになる。

(その封じられた予知能力を持って生まれたルナ)
彼女は人間最後に残された、希望をもって生き抜く力が与えられていないということになってしまう。こんな話は、ルナにしたくはない。
開けたくても開けられない箱からの単純な連想だったとはいえ、次元はろくでもない喩えを出したものだと、苦笑いする。ルナから誤魔化せたのは幸いだった。


「あたしさぁ、昔、次元がパパだと思ってたんだよね」
「……ッ!」
次元は思わず激しくむせる。ルナは「そんなに驚くことないでしょ」と言って大笑いした。
ルナの話がポンポン飛ぶのも、むかしからのクセだった。
ようやく落ち着いた次元は、何とか自分のペースを取り戻す。
「残念だがな、俺がイザベルと初めて会ったのは、お前も記憶にあるあの時なんだよ」
「そうだってね。ママに聞いたら違うって言ってた。何だかちょっとだけガッカリだったな」
「ケッ、お前のようなデカイガキがいてたまるかよ。独身貴族なんだからな、俺は」
「ふーんだ、貴族ってガラかヨ?」
2人は顔を見合わせて笑いあった。

イザベルには、忘れられない「誰か」がいた。
それは、会ってまもなく次元にも感じられたことだった。おそらく、それがルナの父親なのだろう。
この様子だと、ルナは結局自分の父親が誰なのか、イザベルから聞かされなかったに違いない。

あの箱は、ルナの父親に関係したものが入っているのではないだろうか。特に何の根拠もなかったのだが、その考えは当たっているような気がしてならなかった。



次元がルナの元へ転がり込んで来てから、そろそろ10日が過ぎてしまう。
ルナの予言によれば、ルパンは近いうちに脱獄をするはずだった。
次元が「予言」などという得体の知れないものを信じていると知ったら、ルパンはどういう顔をするだろうか。
だが、次元は何度もルナの予知が当たるのを目の当たりにしている。理性は「予知」など有り得ないと叫んでいるが、次元の感性のどこかでは、そういったものの存在を信じてもいた。
(そろそろ、ルパンと連絡を取る算段をしなくちゃならねぇな)
この街でのアジトは、すべて警察にばれている。
となれば、ここから一番近いアジトで待機するべきなのだが、それは国境を越えた隣国ということになる。だが、政情が不安定な隣国へ行くのはなかなか厄介なことになりそうだ。

窓辺に佇みながら、そこから見える路地裏を見るともなしに眺める。
ふと、妙な人影がこの建物を伺っていることに気付いた。次元は瞬く間にマグナムに手をかけると、壁に身を寄せ体勢を整えた。
(誰だ? 警察か……いや、警察だったらあんな見張り方はしやしねぇ。だとすると……)
人影は、3人だった。この怪我だとちとキツイが、3人ならやれないことはない。そう考えた次元が、再び外の様子を伺うと……
さっきまで確かに路地裏にいた怪しい人影は、すっかり消えてしまっていた。

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