パンドラ 4

ルナの店は、ささやかながらいつも明るく賑わっていた。
猥雑で、陽気で、それでいてもの悲しい……この貧しげな街に長く住み着いた住人たちが気楽に顔を出しては話に花を咲かせていく。イザベルが残した店は、そんなところだった。
ルナの代になってからも、それは変わっていないらしい。
ルナは、イザベルの親友だったジョゼという女に助けられつつ、どうにか店を続けていた。
近所の気のいい住人たちに贔屓にされたこの店は、平和そのものだ。

次元は、ルナの店の片隅に座ってバーボンを傾けながら、周囲の様子をさりげなく観察し続けていた。
昼間、次元が窓辺から見た不審な人影。
ルナが何かトラブルを抱えているのかとも思い、店の雰囲気を見に上から降りてきたのだったが……
この店に、不穏な様子は何もなかった。

イザベルが切り盛りしている時からそうだったが、不思議とこの店はトラブルの少ない店だった。
お世辞にも柄のいい地域とはいえない場所に店を構えているにしては、常連となる人間は皆気のいいヤツばかりだったし、地元のチンピラどもに目をつけられている節もない。
時々起こる揉め事といえば酔っ払い同士の他愛のない喧嘩で、バケツの水をぶっ掛けてやれば収まる程度のものでしかなかった。
それは今も同じようだと、次元には感じられた。店は、笑い声に満ちていた。

(だとすれば……狙いは「俺」か)
不審な人間につきまとわれる心当たりは、うんざりするほどある。
次元はすぐにでもここを出ようと決心した。



「次元、飲んでる?」
ルナは、自慢の手料理を次元の前に運んできた。次元は黙って頷き、グラスを掲げて見せた。
その時、カウンターの隣席の男が赤ら顔に人懐っこい笑みを浮かべながら言った。
「ルナ、いい男じゃねぇか。お前の、コレだろ?」
店の客の視線が、一斉に次元とルナに集まる。冷やかすような笑い声が上がった。
「ルナと一緒に住んでるらしいじゃねぇか、なあ、ニイサン」
どこの国でも酔った人間の言うことは似たり寄ったりだな。そう考えつつ、次元はただニヤニヤと笑っているだけだった。

「馬鹿言うんじゃないよ、そんなんじゃないんだからサ」
ルナはそんな冷やかしには慣れっこだと云わんばかりの、ちょっとすれたような口調で酔っ払いを嗜めた。その口調は、かつてのイザベルそっくりだった。
「いいじゃねえか、照れなくても。俺ぁずっと心配してたんだぜ、ルナ。イザベルが逝っちまってから、お前が時々ひどく寂しそうにしてっから。まあ、当然だけどよぉ。……早く男でも作って幸せにやれって、言ってやろうと思ってたんだ」
「グィド、やだな……本当に次元は違うんだよ」
グィドと呼ばれた酔っ払いは、相変わらず真っ赤な顔を次元に向け、こっそりと「違うの?」と訊いた。次元は静かに頷き返す。
「俺は、単なるイザベルのちょっとした昔馴染みだ。残念だがな」
「なんだ、そうか。じゃあ、俺がルナに立候補すっかなぁ」
冗談めかしたグィドのその言葉に、周囲の酔っ払いどもがさらにはやしたてる。ルナは「間に合ってるヨ!」とわざとツケツケと言い返した。
全員が、大いに笑い転げた。

気の良さだけがとりえの、下品で無学で、貧しい酔っ払いたち。
そんな彼らが集まる店で、ろくに勉強もせずに子供の頃から働いてきたルナ。
世の金持ちどもは、彼女を「可哀想だ」というだろうか?
暖かい湯気と、煙草の煙、そして酔客の声に満ちたこの店の中で、忙しそうに立ち働くルナはいつも笑っている。そして、イザベルもまた、そうだった。
(こんな生き方も、あるさ)
母親代わりともいえるジョゼに何やら話しかけられ、ルナがまた明るく笑う。
彼女はここにしっかりと根を張り、自分の居場所を持っている。どんなにささやかだろうとも。そこに、自分の力で立っている。
次元は、そんなルナの様子をただじっと店の片隅で見つめているのだった……10数年前、イザベルを見つめていたのと同じように。





思いもよらぬ使者がルナの元へやって来たのは、その翌日のことであった。
深夜まで働いていたルナにとっては、午前中の訪問者など迷惑この上ない存在であり、繰り返し叩かれるドアの音に憤慨しながら、不機嫌そのものの様子で玄関まで出て行く。
一方ルナと同じように夜遅く寝たはずの次元だったが、今日は偽造パスポートを作ってくれる馴染みの親父の元へ行く予定にしていたので、すでにすっかり出かける準備を整えてあった。突然の訪問者が来なければすぐにでもルナの家を出るつもりでいたのだったが……。

「だぁれ?」
ルナが無愛想にドア越しに尋ねる。ドアの向こう側から返ってきた声は、きわめて丁寧なものであった。
「朝早くお訪ねして申し訳ございません。私、ルイス・メンドーサ様の顧問弁護士でございます。メンドーサ様の代理として、こちらに参りました」
「メンドーサ? 知らないよ、そんなヤツ」
頭をひねりながら、ルナが答える。居間に出てきていた次元は、そのやり取りを聞き思わず口を挟んだ。
「おい、ルイス・メンドーサっていやぁ、有名人だぜ? 確かこの国きっての金持ちじゃねえか?」
「だったらますますそんなヤツは知らないよ。……訪ねる家を間違ってんじゃないの?」
最後の言葉は、ドアの向こうの訪問者に向けたものだった。ルナの不機嫌そうな声にもまったく動じた様子もなく、弁護士は淡々と、だが話相手に自分の話が誠実に聞こえるよう常に努力している者独特の、抑揚のきいた口調で言った。
「間違ってはおりません。ルナ様でございますよね? イザベル様のご息女の」
「……ゴソクジョ? ……ん、ああ、そうだけど」
ルナは、その時ようやく、ゆっくりとドアを開いた。
そこには、一部の隙もなく高価なスーツで全身を固めた、上品そうな初老の男が立っていた。

「ルナ様のお父上でいらっしゃる、ルイス・メンドーサ様からのご用件をお伝えしに参りました。少しだけ、お邪魔してもよろしいでしょうか?」



(こりゃ、さすがの俺も驚いたな……)
居間の片隅にひっそりと腰を下ろした次元は、メンドーサの顧問弁護士の話を聞きながら独りごちた。

当初次元は、この突然の使者にかなり興味を持ったものの、すぐにでもルナの家を出ようと思っていたところでもあり、席を外すつもりでいた。だが、ルナは次元を引き止めた。どうしても一緒に話を聞いていて欲しいと言う。
普段めったに見られないほど戸惑い、心細そうなルナの様子に、次元は思わず頷いた。
弁護士は、ほんの一瞬だけ……普通の人間だったらまず気付かないほどわずかに、胡散臭そうな視線を次元に投げ掛けた。
次元が帽子の影から鋭い視線を返すと、弁護士は何事もなかったかのようにそっと目を伏せ、もう二度と次元の方を見ようとはしなかった。

(ルイス・メンドーサ……か)
ルイス・メンドーサはこの国の立志伝中の人物といっても言いすぎではない。ごく貧しい家庭に生まれ、そこから自分の才覚とずば抜けた強運でのし上がる。自ら興した会社を、わずか一代で巨大企業にまで育て上げた。
今も幅広く事業を展開し続けており、この国で指折りの大資産家である。
だが、一代でそれだけの財を成した男には、輝かしい成功話の裏に、いつも暗い影がつきまとっている。
政治家との癒着、その一方でマフィアのような裏社会を仕切る組織との関わりも囁かれる。
才能溢れる、カリスマ性を持った偉大な男との評判も高いが、相当後ろ暗いことにも手を染めたことがあるとの噂も絶えない。

ルナは、そんな男の実の娘なのだという。
弁護士の話によると、メンドーサとイザベルは幼馴染という間柄で、大人になってからは一端音信不通になっていたものの、偶然この街で再会し「そういう関係」になったらしい。
だがその時すでにメンドーサは、財界の有力者の娘と結婚していたのだった。
(よくある話だな……)
次元は皮肉な調子で考えた。ゆっくりと煙草に火をつけ、吸う。
(イザベルには、忘れられない男がいることは会ってすぐにわかったが……それがメンドーサという有名人だったとは。ちと意外だがな)

イザベルは結局身を引くことになる。子供を身ごもっていることに気付いたのは、別れた後だったのか……
ともかくイザベルは独りでルナを産み、育てようと決意する。
子供が産まれたことを後から知ったメンドーサは援助を申し出るが、イザベルからきっぱりと断られたという。
イザベルらしい、と次元は思った。イザベルは別れた男に、しかも家庭があり、それをどうしても捨てられない男に子供が出来たと言って頼っていくようなタイプではなかった。
それが正しい選択かだったかどうかなど関係のないことである。イザベルとはそういう女であった。


弁護士の話は続いていた。
「……そしてこの度、イザベル様が事故でお亡くなりになったことを知ったメンドーサ様は、貴女様にも財産をお譲りになりたいとのお考えを持っていらっしゃいます」
「財産って……そんな」
突然、降って沸いたように父親と名乗る男が登場するとは、ルナにはそういう未来はまったく見えていなかったらしい。
彼女は激しく戸惑っていた。
もしかしたら、父親が生きていることすら知らなかったのかもしれない。父親がいると知らされ、それがこの国有数の富豪・企業家だと言われれば、ルナでなくとも戸惑うだろう。
助けを求めるように、一瞬ルナは次元に目をやった。次元は、黙って煙草を吹かすだけである。
どうしてやることも……できない。

「ルナ様、何かイザベル様からお預かりになっているものはございませんでしょうか? メンドーサ様が昔イザベル様に手紙や書類をお送りしているそうでして。……それを確認させていただき次第、さっそく財産分与の正式な手続きをいたしたいと思いますので」
「手紙や書類なんて……」
そう呟いた途端、ルナは思わず「あ」と声を漏らす。
その視線は、サイドボードに置かれたあの箱に注がれた。

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