パンドラ 5

不思議なものでも見るような視線を、ルナはしばし「あの箱」へと向けていた。
開けずにいることが、このささやかな幸せを守っていると信じていたお守りの箱……
開けなくてはいけないのだろうか?
戸惑いと、かすかな畏れがルナの瞳に過ぎる。

未来を見通すことがあるその瞳に、今回の事態は映っていなかったのか。次元は静かにルナを見守るばかりである。
一回だけ、ルナは次元に心細そうな視線を向けたが、すぐに箱へと戻す。
弁護士が言うような手紙などが残されているとしたら、ここしかない。弁護士は、相変わらず無表情に慇懃さを保っているものの、じれったく思っているだろうことは容易に察することが出来る。
「……」
開けずには済まされないようだ。そう覚悟を決めたものか、ルナは無言でゆっくりと立ち上がり、箱の元へ近づいた。
そして箱をそっと手に取る……。
彼女が息をつめていることが、次元の方からでもはっきりとわかった。
彼女はふたに手をかけた。


そして、箱は開いた。……勿論、何ごともなく。
ありとあらゆる災いが飛び出してくるはずもない。ルナは静かに息をついた。
箱の中には、想像通りのものが入っていた。
イザベルに宛てたメンドーサの手紙が数通。その中には弁護士が必要としていた書類も含まれていたようだ。
ぼんやりとしたままのルナに向けて、弁護士は何やら熱心に語り続けていたが彼女の耳に届いていたとはとても思えない。が、お構いなしに弁護士は正しく命じ られたことを語りつくし、そして財産相続するのに必要なこの手紙のいくつかと書類を預からせて欲しいと言った。
ルナは、どうでもよさそうに無言で頷く。弁護士はどこか満足そうに言った。
「これで何の支障もなく、メンドーサ様のお嬢様だと認められることでしょう」


弁護士が去って行った後も、ルナは相変わらず放心したようにソファに座り、空っぽの箱をひざの上に乗せたまま動こうとはしなかった。
次元は、彼女に「ついていて欲しい」と言われてここにいたものの、その役目は終ったと判断し、腰を上げた。ルナは、ようやく次元が同じ部屋にいることを思い出したかのように振り向いた。
「次元……」
「ああ」
「びっくり、したよ」
「だろうな」
2人は、顔を見合わせて笑った。ルナは「あーあ」と伸びをすると、箱を閉じまたサイドボードの上に戻した。

「ママったら、何であんなめんどくさそうな相手と付き合ってたんだろ?」
「そりゃ……惚れてたからじゃないのか」
「だよね。……ああ、あんなものが入ってるだけだったなんて、ね。つまんないの」
そう言うと、ルナは箱に再び目を向けた。その瞳に、まだほんの少し不安な色が滲んでいることを、次元は見逃さなかった。開けてしまった事を、気にしているのだ。
「お前は何が入ってると思ってたんだ?」
「別に。具体的なものを想像したことは一度もないんだけどね」
次元は皮肉そうに笑みを浮かべる。
「そういうもんさ、お宝だって開けてみるまでが一番楽しい。開けちまえば、どんなモノだって『それ』は『それ』に過ぎなくなる」
「うん……」
あの箱だって、いざという時にルナが父を頼れるようにと、イザベルが残した手紙の束だ。箱は単なるその入れ物。開けたら何かが起こるだなんて、ルナの思い込みに過ぎない。……そう言ったつもりなのだが、ルナに伝わったかどうか。

「今度手続きが終ったら、屋敷に来いって言ってたな。ネエ次元、ずいぶん偉そうだと思わない? フツー『パパ』って向こうから会いに来てくれるもんじゃないの?」
その問いには答えず、次元は逆に訊き返した。
「お前は会いたくねぇのか?」
ルナは、ふっと目を伏せた。
「会いたくない。……わかんない。パパなんて、いないと思ってた。今更、ナンだっていうんだよ。財産って何だよ。そんなもの、いらないのに」
一気にそう言い切ると、ルナは静かにうつむいたままだった。
次元は何か言いかけたが、その言葉は飲み込んだ。その代わりのつもりなのか、彼はほんの一瞬、そっとルナの頭をなでると「出かけてくる」と呟いて部屋を出た。



ごみごみした細い路地裏を歩きながら、次元は、ルナの父親がメンドーサというこの国の裏にも通じている男であったということに納得できるものを感じていた。
(どうりで、あの店は平和だと思った)
お世辞にも治安がいい街とはいえない、その中でも貧しくて物騒な一角に位置するイザベルの店。
そのわりにあの店が荒れたことはない。おかしな連中が出入りすることも、くだらないチンピラの縄張り争いにも、巻き込まれたことがない。
もしかしたら、メンドーサが手を回していたのでないか、と次元は考えていた。
一切の援助を拒絶するイザベルへ、メンドーサが唯一出来た手助けだったのかもしれない、と。

その時だった。次元は背後に不穏な気配を感じた。
(つけられている)
次元は何一つ変わらぬ様子で歩き続けながら、後ろについてくる人間の気配を探った。
(2人か)
ますます、道は狭くなる。ゴチャゴチャとした店のならぶ一角を通り抜け、人気が次第に少なくなっていく。歩調を速めることも、緩めることもせずに次元は歩き続ける。
「ヤツら」は同じペースでついて来る。

ふいに、駆け出すと次元は角を曲がった。途端に、慌ててこちらへ向かってくる気配を感じる。
それが角を曲がってきた瞬間、待ち構えていた次元は愛銃のグリップで思いきりそいつの頭を殴りつけた。
「!!」
尾行してきた一人目の男は、声もなく崩れ落ち、完全に昏倒した。もう一人の男はそれに驚く隙もなく、次元に胸倉を掴まれると壁に叩きつけられた。

「俺に何か用か?」
次元は、銃を男のこめかみに突きつけながら静かに訊いた。尾行してきた男は、蒼ざめているものの不敵な面構えをしており、口を強く引き結んで次元を睨みすえている。
「そうかい。人のあとをコソコソつけ回してその態度とは気にいらねぇな」
そう言うと、次元は簡単に引き金を引いた。

「ギャアアアッ!」
男は、血が噴出す耳を押さえて転がりまわる。次元は表情も変えずに転がる男を引きずり起こすと、再び壁に叩きつけた。
「うるせぇから、大袈裟に喚くな。ちょっと耳朶をかすっただけじゃねぇか。……もう一度訊くぜ、俺に何の用だ」
「うう……」
「もう一発食らわなきゃ、わからねぇようだな」
冷徹な無表情のまま、次元は撃鉄を起こす。帽子の影から覗く何の感情も見せないその瞳に、男は震え上がった。
「待ってくれ! 言う! 何でも言うから! だから銃を下ろしてくれ」
「下ろすか下ろさないかは、俺が決めるさ。さあ、吐きな。……何もかも、な」

「た、頼まれたんだ。メンドーサの奥様に。あの小娘を……消すように」
「何ぃ?!」
次元は思わず叫んだ。数日前からウロウロしていた奴らの狙いは、次元ではなかったのだ。
メンドーサの正式な妻。彼女が夫が別の女に産ませた娘の存在を知り、消そうとしている……。
メンドーサがルナに財産を相続させようとしていることに気付き、それを阻止しようとしているのか。
(くだらねぇ!)
次元は、そう叫びだしたい衝動に駆られた。

「だけどあんたのような物騒な男が、最近ずっとあの娘の傍にいて……。それでなかなか手が出せないと言ったらお前ごと消せと言われ……」
男は喋り続けていた。が、次元の耳には半分くらいしか届いていなかった。
(そういえば……イザベルはつい最近事故で死んだと言っていた。「事故」で。……まさか)
「おい」
突然次元は真剣で、凄まじく物騒な顔つきで男を締め上げた。
「正直に答えろ。あの娘の母親が死んだことに、お前らは関係しているのか?」
「……」
男は唇を震わせてどう答えようか迷っているかに見えた。次元は、静かに男の胸に銃を突きつける。
「待ってくれ! 俺じゃねぇ! 俺はやってない、何も! 事故に見せかけて車でひき殺すような器用なマネなんかできるもんか! やったのは、今あの小娘をつけているヤツさ!」
「……!」

次元は男の腹に一発拳をめり込ませた。ぐぅと嫌な声を出して男は気を失った。当分目が覚めることはあるまい。
そして、次元は急いで今来た道を駆け戻る。
(ルナ)
今の時間、彼女は市場へ買い物へ行く頃だ。
(ルナ、お前まで死ぬな。こんなくだらねぇ理由で)
財産なんか。そう俯きながら囁いたルナの姿が蘇る。

次元は、走り続けた。

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